孔仁門クラブ
○孔仁門クラブ活動予定
■会場■
 孔仁門クラブ(少年部)・松風会(研修会)
 明治公民館

■時間■ 
 少年部 9:00〜 9:55
 研修会10:00〜10:45
 ※ 研修会:少年部指導者を対象にした勉強会


■スケジュール■
<2024年>

 11月

   2(土)【明治】体育室(松)昇級昇段審査会
   9(土)【明治】第一談話(松) 
  16(土)【明治】第一談話(松)
  23(土) 休み
  30(土)【大庭】第二談話(松)
   ※ 会場予約(20日〜月末)

 12月

   7(土)【明治】体育室(松)
  14(土)【明治】体育室(松) 
  21(土)【明治】体育室(松)孔仁門演武大会/クリスマス会  
   ※ 会場予約(20日〜月末)

<2025年>

 1月

  11(土)【明治】体育室(孔)※円覚寺新年祈願祭
  18(土)【明治】体育室(孔) 
  25(土)【明治】体育室(孔)  
   ※ 会場予約(20日〜月末)

※会場は変更することがあります

※神台北公園(2丁目3)での稽古の際は、
 9:00に公民館1階に集合、稽古後は現地解散 

■その他のスケジュール■
令和7年5月18日(日)
日本空手道松濤會創立90周年記念演武大会(国立オリンピック記念青少年総合センター)

________________________



【お知らせ】

 ●駐車場利用について
  ・明治公民館:送迎可能
    ※サークル活動中に駐車できる台数が
     決められています。
     保護者の方はなるべく送迎のみで
     お願いします。     
  ・辻堂公民館:送迎可能(5分以内)
  ・湘南大庭公民館:利用可能(2時間以内)
  

 ●孔仁門LINEグループについて
  諸連絡、動画の展開などに活用していきますので
  会員で未参加の方はお声掛けください。
  なお、連絡等の確認後は、スタンプ等で
  リアクションをお願いします。


 ●帯・空手着の譲り受けについて
  孔仁門クラブの先輩方から受け継いだ帯を
  無料で使用できます。ご希望の方は
  孔仁門LINEノートで帯の色とサイズを確認の上、
  お声掛けください。
  また、昇級し使用しなくなった帯や、
  小さくなった空手着を寄付してくださる方は
  稽古の際にお持ちください。
  
  



 
− 役員担当割 −

1.会場予約・減免申請:総務
  会場予約日(20日〜月末) 

2.合宿予約:担当役員
  夏合宿4月予約予定


○武道空手演武

【孔仁門クラブ 形 模範演武(太極初段、平安初段、平安二段)】



※ 演武者:孔仁門クラブ 少年部卒業生(長澤大和) 


(参考)船越義珍・組手演武動画 ← クリック
※引用先:Gichin Funakoshi 船越 義珍 [ Founder of Shotokan 松濤館 Karate-Do ] Tribute (1868- 1957)




○武学講義(空手道の歴史と精神を学ぶ)


第1章 基本編 −空手を学ぶは何のため−

1.武道について

講義1.武術を学ぶ者の心得
解説 安心・安全は人の生活の中で、充実した人生を生きるための中心的な役割です。人が安心して生きるためには、絶え間ない恐怖と暴力から心と体が解放されなければ、芸術、文化及び社会の中で人生を楽しむことはできません。その不安を抱える弱い立場の人に、人生の希望と勇気を持たせてあげることが武術の役割です。しかし、武術の一番の目的は人を倒すことによる解決方法ではなく、自分自身に打ち克つものでなければなりません。武術の稽古をするならば善い目的を持つ必要があります。自分の身体も精神も強くなるように鍛錬を行い、弱いものに役に立つ。これこそが武術である。喧嘩に勝つことや仕返しのために、武術を使ってはなりません。また、武術を身に着けたことで、それとは反対に弱い者いじめや人を怖がらせることがないように日頃から謙虚に振る舞い、多くの人から尊敬をされるようにならなくてはいけません(参照:映画SPIRIT)。
 武道家は常に普段の稽古を命懸けで行い、「人生をどう生きるべきか。私は人生を本気で生きているのだろうか」、自分自身に問いかけながら青春の夢を生涯に渡って求め続けることこそ、空手道の稽古を生涯続ける真の意味があります。自分はどんな人間になり、何をするべきか。自分の将来に真剣に悩む夢を追う人こそ、本当の稽古人である。武道の稽古は将来想定されるトラブルや暴力に立ち向かうための技を学ぶということよりも、そのトラブルや暴力を自ら起こさないように自制し、何事も起こらないように危険を事前に対処・予防することに本当の意味があります。争いを起こしてしまうならば、勝っても負けても誰かを悲しませることになり、武道家としては失格です。礼儀を重んじ、あえて危険な場所には行かない事こそ、本当の護身術である。例え、自分を憎む相手であろうとも、人として仲良くすることに努め、共存共栄の道のために尽くすことである。
 自分の立場を守るために相手を憎み、他人を傷つける事は簡単に誰にでもできます。しかし、強きをくじき弱きを助く、皆と共に生きる道を歩むことは誰にでもできる事ではありません。人が理想の人生を歩むために、武道として礼儀と武術を生涯を通じて学ぶ重要な意味はここにあります。世界には国内紛争によって悲惨な状態の中で生存そのものを脅かされる者、国内にも様々な理由で明日への希望を失っている青年も多く見られます。人種、民族、国境、文化、言語等の異質の壁を乗り越えて、お互いの幸福、繁栄、平和のため、そして人類の福祉向上の貢献を目指す武道こそ空手道の使命です。

講義2.武道とは何か。
解説 武道とは歴史的・文化的意味合いから、真の意味は武士道の侍(サムライ)によって発展した格闘技文化である。武士が活躍していた時代は、今の行政の役割を武士が担って国民のために日本を統治した役割だったと言えます。当時は行政も学校も存在しなかったため、天下泰平の世の中を創るため、武士が行政と学校教育の役割を担い、武術よりも学問を重視して寺子屋で教師として青年たちに読み書きを教えている。日本をいかにして天下泰平の世にするか。武士の知恵や精神鍛錬法が、今を生きる人々の日常生活の中で何物も恐れない生きる力として日本人の心に大きな影響を与えた。
 武道理念はその学問(儒教、禅など)から得られた道徳により、生きるか死ぬかの戦国時代に卑怯な手を使ってでも勝利にこだわる武将が多い中、例え敵でも困っている相手には手を差し伸べる美学を優先する武将も多く現れた。武道の高い道徳性はこれらの武士の美学から培われた道徳律から波及され、自らの内面の調和(心、技、体)の一致を目指し、自分自身の傲慢を捨て、人との礼節を大切にしながら人生や物事の道理を知る精神修養の道として生かされている。その内面の調和により、個性が開花し、その生来の能力を最も深く広く発揮することができる。武道家の世間の目よりも自分の魂を重視した真理への求道の精神は、そこに生じる社会性や各界の指導者としての能力、他の道への助力など独自の発想を生み出し、無限の可能性を持っている。

講義3.武道の武はどのような意味があるのでしょうか。
解説 二人の戈(争い)を止める。つまり、相手が武器を用いて自分を攻撃しようとするのを未然に制することであり、自分の大切なもの(身体、自由、愛する人等)を守ること。

講義4.武術に大きな影響を与えた3つの思想は何か。
解説 @儒学(じゅがく)思想(武士道の精神の原点となった孔子・孟子等の思想)、A道家(どうけ)思想(剛から柔に達する道を説き、技術上達の諸相を示した老子・荘子の思想)、B兵家(へいけ)思想(軍事的観点から直接、個々の格闘武技にも応用しうる各種戦法を説いた孫子・呉氏の思想)

講義5.孔子の3つの徳目は何か。
解説  空手道は中国から沖縄に伝来した拳法の一つであるが、唐の時代に中国で官吏になるためには儒学と拳法を学び、科挙の試験を受けて進士の位を得なければならなかった。そのため、中国拳法はボクシングのようにただ単に格闘技として発展せず、高い倫理観を持つ優れた君子の拳として「拳法は緒学の基にして、武門の中では一派をなす」と言われるほどに、天下を治める武術として中国で発展した。
 孔子の3つの徳目は、「智(ち)」(学問の探求)、「仁(じん)」(道義の実践)、「勇(ゆう)」(敢闘の精神)の3つを重んじた。この三者を知れば、身を修め、人を治め、天下国家を成すに至ると考えた。このうちの一つ「勇」は武術に直接関係する徳目であり、力だけに頼る蛮勇(ばんゆう)は愚か者として批判したが、国の平和及び社会規範を守るための戦いは積極的な姿勢を持っていた(力なき正義は無力なり、正義なき力は暴力なり)。

講義6.沖縄秘術から武道へ
解説 武道の歴史は武士道の剣術の歴史にある。武士道は封建制度の中で形成された武士(侍)が守るべき世界感である。主君を守るために武士が剣術を手段として殺し合うという残忍な職業の中で、危難や惨禍(さんか)に際しても常に心を平静に保ち、生死に執着しない生き方を禅から学んでいく。禅の本門は平和であり、武士の苦悩の心に慈悲の精神が育まれることになる。
 剣道は国主として育まれてきた義を大切にした武道であり、剣術の世界で築き上げてきた武道の目的は国を守ることと、平和の世の中をつくることである。それに対し、空手道は中国の嵩山少林寺の僧侶等から発祥したと言われており、盗賊など無法者から弱い民衆の身を守るために育まれた庶民の武術であり、自分の身を守るための護身術としての歴史を持つ武術であった。何の力もない一人の庶民の目の前で、無法者から自分の我が子や大切な家族の命が奪われる悲劇は、力なき庶民を立ち上がらせ創意工夫を凝らして出来上がった秘伝の武術であったと言える。空手道は大正時代に船越義珍により沖縄から本土に空手道を紹介されてから、武士道精神を継承する武道の世界観を受入れ、一人を守る護身術からすべての人を守る武道へと変遷を遂げた。

講義7.日本の魂(The Soul of Japan)が世界を感動させる。
解説 日露戦争の勃発時、フランシス・ブリンクリーというイギリス人ジャーナリストが、「武士道」(著者:新渡戸稲造、元国際連盟事務次長)を読み、全身が震えるほど感銘したと言われている。ジャーナリストは「ザ・タイムズ」で日本を擁護し、紙上で「日本武士道論」を発表した。その報道は世界中を駆け巡り、その新聞を読んだロシア皇帝ニコライ二世は、これによって日本民族がいかなる民族かを知り、ロシアの開戦論者の無知ぶりを嘆いたと言われている。その後、日露戦争終結(1905年)時、金子賢太郎総理秘書官は、ルーズベルト大統領に日露講和条約の調停役を依頼した際、「私は日本のことは知らないが、武士道は知っている。あの崇高なる精神を持った国ならば、ぜひ協力したい」という仲立ちにより、日露講和条約は調印された。
 初めて「禅(ZEN)」を欧米に伝えた円覚寺の釈宗演(しゃく そうえん)禅師は師の今北洪川が猛反対したが、1885年に慶応大学に入学し、福沢諭吉、山岡鉄舟、夏目漱石など著名人と親交を深めました。日露戦争の終結の年に渡米、1906年6月ワシントンでルーズベルト大統領と会見し、鈴木大拙(宗教学者)の通訳を介して世界平和について語り合っています。ルーズベルト大統領は実は39歳の時にウイルス感染が原因で、身体障害者(下半身麻痺)でした。それでもその事実を隠して自分の運命とも立ち向かい、第二次世界大戦のアメリカの重要な局面でも大統領として立派に指揮を取り車椅子で執務を取っています。彼は時代に先駆けて身体障害者でも自分の力だけでは無理だが、周りのサポートさえあれば十分に社会で活躍できる力を持っていることを示した人物としても有名です。
 なぜ、武士道の精神(サムライ)は、世界中の多くの人の心を動かしたのだろうか。ある意味では、それは当然のことと言えた。なぜならば、新渡戸稲造の記した「武士道」は、人間としての道徳の本であり、自分の命を捨てても志のために生きる姿は、例え国や民族が違っても、人が健全なる社会を築き、美しく生きようとする心に響いたのだろう。世界の国では、道徳教育を宗教教育で補っている国が多い。しかし、日本の素晴らしい心は確かに存在している。それらは、大和魂と言われる「武士道」の精神に少なからず影響されている。

講義8.武道とスポーツについて
解説 武道とスポーツは、技の観点と目的に大きな違いがある。スポーツは技に制限を掛けて勝負の世界で勝つことを目的に、健康・自分自身の成長につなげるに対し、武道は人間形成に重点を置き、勝負にこだわらない千変万化の多様な技を磨きながら人生を深く学ぶことである。
 特に、欧州から普及されたスポーツは、欧州の特権階級の遊びとして発展した運動文化には競技性の重視と欧州文化思想である個人と自由主義に価値を置く点にあります。しかし、武道は競技性よりも個人と社会の幸福は、一体であるという価値に重きを置いています。スポーツの最高の舞台であるオリンピックはトレーニングを積み重ねて、金メダルという最高の賞を自分自身で掴み取るものです。しかし、武道の生き方は勝利を自分自身で掴み取るものではなく、公共や社会に功労があった人に国が授与する日本叙勲(中大OB 高木丈太郎、瀧田良徳)、英国叙勲(早大空手部OB 原田満典等)、国連平和賞(一橋大空手部OB 小坂善太郎等)のように意識しない努力の結果が誰かの目に留まり評価される武道家もいるが、多くの武道家は社会のために尽くす事に生涯の価値を置きながらも誰の目にも留まらずに桜が散るように儚い命を終える。それが武道家の誇りであり、最高の美学である。大道寺友山は、武道の眼目は「いかに人生を生き、終えるか」であると言われている。人は誰もが長生きできるものと思い込んでいるが、人生は必ず終わりがあります。だからこそ、常に今日が私の人生の最後になるかもしれないと常に一日を大切にして生きれば、誰もが災いを避け、健康と人格を高めることができる。
 空手道を通して武道とスポーツのどちらを選ぶかは、自分の人生の中で空手道をどう位置付けたいかという生き方の選択でもあると言えます。武道とスポーツのどちらを選択しても、どんな小さな「願い(志)」でも心にひそかに持ち続け、一隅を照らす人になりたいと稽古に励む前向きな姿は、学業も仕事も順調に良い方向に進みます。また、その人の周りには同じ志を持つ多くの友人が集まり、充実した人生を送れることには変わりはありません。

講義9.武術も物理・科学の法則の一部
解説 武術の動きも自然の動き(物理・科学の法則)の一部として存在している。自然の法則を理解して、初めて武術における動きも理解できるのである。力のある者が力のない者を倒す。あるいは、手の遅いものが手の早いものに負けることは一つの真理。ただし、バネや梃子の原理を応用した小さいながらも大きな力を発揮する良質な力、あるいは運用する巧みな技術により逆転も起こることも真理である。
 最も大切なことは、自己の一方的な見方を捨てて相手と相関関係を把握することである。しかし、多くの人は、身近に存在する簡単な真理を捨てて遠き誤解に憧れる。根本的な立場のほんの僅かの違いが千里の誤りを生ずる(王宗岳の一部抜粋)。また、人生も真理の法則に逆らって生きれば、自ら真理のレールから脱線するため、転覆・衝突その他の不幸が起こるのは自然の理である。人も自然の法則の中で生かされているということを武道の中から理解することができます。

講義10.握れば拳、開けば掌
解説 この諺の意味は、人の手は握りしめれば手は喧嘩の拳(こぶし)になり、誰かを傷つけ、泣かせ、悲しませるための武器になる。しかし、手を開けば友好関係を築くための握手に変わる。同じ一つのものでもその人の思いによって状況が変わる事を言う。
 拳で闘う格闘技は拳闘(ボクシング)を意味し、空手の手は拳を意味した空拳ではない。昔の唐手は護身術を目的として、手は掌を意味する。手を開く手刀受けは、受けから握り技に変化し、相手の攻撃を無力化させる。空手道は攻撃者を主とした武道ではなく、防御者を主とした武道である。

講義11.経済(けいざい)とは、どのような意味か。
解説 経世済民(けいせいざいみん)の略語で、世界を安穏にし、民衆を救済する社会を形成することを意味する。経済の未来は、国や政府に委ねられるものではなく、民衆一人一人の思いの中に委ねられている。なお、武道の精神は、政治、経済、教育の世界で生きる平和を愛する人々に役立てられている。

講義12.道場とは何か。
解説 空手道の修行をする場を道場と言う。道場とは、諸仏の菩提を成就する場所と言われ、古くから仏教で用いられた言葉である。道場という言葉の真髄は、道を修む場所と言うことであって、のちに武芸等を稽古する場も道場と呼ぶようになった。空手道は、単に技術だけのものではなく、人格を養成するものである。空手道の稽古生は、道場の神聖さを汚す言動と行動を慎まなければならない。

講義13.学ぶ者が知って置くべき事。
(論語)
 学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。
 朋あり、遠方より来る、亦楽しからずや。
 人知らずしてうらみず、また君子ならずや。
(通解)
 学んだことを実際の社会で実践する。その学問(稽古)が活かさて、人に喜ばれた時は嬉しい。また、志を一つにした人たちが集まって、一緒に学問(稽古)をする時は楽しいものである。しかし、他人が自分を理解してくれないからといって、腐ったり、落ち込んだり、感情的にならない、そういう姿勢も人間形成を目指すために学ぶ者の在り方であり、本当に大切なことである。

講義14.芸術・武術の使命について
解説 芸術(音楽、絵画等)・武術(格闘技等)は、例外なく比較による上手さを競う目的のためにあるわけではなく、人に勇気、希望、生きる力を与えるためにある。音楽や絵画には人それぞれ置かれている状況により、感動する音楽や絵画に違いがあるように、点数を付けて良し悪しを評価することに意味がない。武術の実力・評価をする時にも、芸術と同じように千変万化の技・実力に点数を付けて優劣を評価することには意味がなく、その技がその状況に適したものであること。そして、生きる人々に役立っているかに本当の意味がある。

講義15.武道を学ぶは何のためか。
解説 武道の指導者は、喧嘩に強い子供たちを育てようとしているわけではなく、外的な圧力に屈せず、自分に負けない子供たちを育成しようとしている。自分では何もできないと思い込み、親や友達からも「駄目だ。不器用だ」と言われて自信をなくしている子供たちに対して、空手道の精神と技術を教えることにより、自分で自分を信じる力を持たせてあげることができる。空手道は誰かと争うためのものでも、誰かを憎むことでもなく、自分の人生をうつむかずに自分らしく生きるためのものであります。
 将来、子供たちが社会で独り立ちする時は、前例や答えのない課題ばかりである。人生の大海原の中、教科書の知識だけでどれくらい太刀打ちできるだろうか。人生で求められるものは自らで答えを導き出し、創造する力と表現する力を養うことである。知識は座して覚えるものであるが、アイデアと創造力は動いてひらめくものである。これからの時代を担う青年は、修文練武(学業を修め、武道で心身を鍛える)の精神で日々自分自身を成長させましょう。特に大学空手部の学生は、教育の一環の場であります。学業と武道に青春を謳歌して、模範の学生として皆の憧れの的に成長することこそ大切である。空手道の存在する目的は人生の手段であり、自分の夢を実現するための生き方を学ぶ場に過ぎません。最強の空手家を目指すことを最終目的とせずに、立派な社会人として評価されるような人になりましょう。それが大学職員及び先生方への恩返しであり、何よりも親孝行になるでしょう。また、決められたリングの中でしか通用しないヒーローではなく、多くの人に愛される武道家になりましょう。

講義16.武術の優劣・強弱はあるのか。
解説 どの武術(柔道・空手道・剣道)が一番優れているか。また、どの武道が一番強いかなどについては、武道家であれば誰もが一度は考えるテーマである。しかし、実際には武術には優劣や強弱の差はありません。あるのは武術を使う者の努力による技量の差だけです。
 武術に優劣や強弱がないのならば、なぜ武術には組手や試合があるのだろうか。究極的には、組手や競技でない試合を通じて相手と向き合い、己の真の姿を知るためです。例えば、空手家が柔道家と技を交わし、柔道家に負けたとしても空手道が柔道より弱いという判断はできません。その逆も同じです。つまり、その人の負けは、その人自身の力不足による敗退と言えます。日々の自分自身の稽古の中で多くの武道家と技を交わし、自分の弱点を組手の中で知り、その弱点を自分で克服していく中に何者にも負けない実力を備えることができます。

講義17.礼法
解説 空手道教範の観空の型の中で、小笠原流礼法のように始めるように指示される部分がある。観空は仏教用語から名付けられており、空の世界観の表現とも言える。小笠原流礼法は武士の礼法と言われ、煌びやかなものや追従するものもなく、自己を律し相手を敬うこころを大切にする礼法である。武士としての誇りや立ち振る舞いは、真のリーダーとして最も大切にすべき心構えを養う意味では、武道空手の最高岬を目指す者ならば、心技体の一部として常に意識しなければいけない。
 船越空手は武士のように日本の柱となって活躍しながらも、それをひけらかすなど傲慢にならずに、誇りと品格は自分の命と同じように大切にしなければならないことを指導している。家族や友を愛し、自分の命は大自然に生かされていることを感じ、自分の人生を大切に生きる。現代の組織のリーダーは必ず何かを学びたい、何かを感じ取りたいなどの多くの人に関心を持たれているものです。どのような心も形に表され、形は心に影響される。そして、リーダーは立ち振る舞いで人を魅了することもできますが、人望を失うことにもなります。礼法で最も大切なことは、相手を敬う心と人に感謝を表す心です。どんなに優れた武術家でも不作法で品格がないようではいけません。真のリーダーとして、人を敬う心、感謝する心を育てて、素晴らしい人生を歩んでいきたいものです。

講義18.剣道の剣術・居合の違い
解説 剣道には剣術と居合の道がある。剣術は両者共に刀を鞘(さや)から抜いて敵と戦うが、居合は刀を鞘に納めたまま相手を対峙するのが居合である。
 武術では、先手を打って攻撃するのを「先の先」、相手の攻撃を誘い反撃するのが「後の先」と呼ぶ。居合は「後の先」であり、護身術の根本思想である。好んで敵を求めず、刀は鞘に納め、有事の際には遅延なく抜刃する武術である。つまり、合戦場における戦術から平和な時代が訪れた際の危機管理に変貌を遂げた武道である。
 松濤會空手の理念は、居合に近い思想である。お互い拳を構える手法ではなく、片方は自然体に構えて、自分に身の危険があるまでは敵ではなく尊敬すべき相手なのである。

講義19.温故知新について
解説 温故知新(おんこちしん)とは、「故(ふるき)を温(あたた)めて新しきを知る。」(意味:過去(歴史、伝統、古典など)をよく学び、そこから新しい知識や道理を得る。)という言葉です。
 今を生きている人々の思いや現実を知っているだけでは、本当の今を理解して生きているとは言えない。過去を知ることによって、今を生きている人々の生きる意味を本当に理解することができるのである。歴史をただ、知識として理解するのではなく、先人が「何を悩み、何を成し遂げようとしていたのか。」、その思いを自分の人生に当てはめて生きることに一生懸命になる時、過去の先人たちのたぎる思いが湧き上がり、今を生きている人々の背中を押すように大きな力を与える。
 人類は産業革命によって、科学技術の力で文明を益々進歩させて便利になっている。しかし、人間の心と本質は、何千年の歴史の中で変わり行くものではない。現代の生きる人々の骨格となる法律の中に、人が大切にすべき「勇気、思いやり」の精神の言葉が存在しなくても、人間にとって本当に必要な精神は、何千年の時を経ようとも人々の心の中に必ず生き続けるのである。


2.空手道の歴史について

講義1.空手道は、どの武道が源流となり発展したものか。
解説 中国の達磨大師は、僧侶の厳しい修行に必要な心身鍛錬法を目的として少林拳を始めた。その中国拳法(少林拳)が琉球に渡り、発展したものが「唐手(沖縄手)」(後の空手道)となったと古き文献である「空手道教範」(1935年発行 船越義珍著)に記載されている。

講義2.空手道の発祥の地は、どこか。
解説 唐手術(後に空手道)は、琉球(沖縄)で育った格闘技である。唐手術の中には、首里の町を中心に普及した「首里手」(例:糸東流、松濤館流)、那覇の町を中心に発達した「那覇手」(例:剛柔流)と称された。
 この空手道の発祥の地(沖縄県那覇市の末吉公園)に、日本空手道松濤會は、空手道の礎を築かれた功績を後世に残していくため、「感謝の松(平成十年八月二十七日)」(船越義珍)と「誉れの松(平成十四年七月五日)」(船越義豪)を植樹されている。
【参考】設置場所:船越義珍・義豪の松(沖縄空手案内センター)

講義3.空手道の目指している目標とは。
解説 本来の空手道は、「君子の拳」として、技を磨くことによって心身を鍛え、正義(不正や悪と戦う勇気)の行動力を持った人材の育成の道である。ただ単に、相手を威嚇するため、又は勝負に勝つためだけにやるべきではない。
 普段の平時の時には、誰が見ていなくても多くの人の活躍を陰で支え、一朝有事の際には危険を顧みずに前面に立って多くの人を守る人である。例えるならば、拳聖は単なる武術家ではなく、苦しむ人々に代わって意志を伝える武道家であり、空手道の基本精神でもある。

講義4.沖縄の唐手術を空手道と改名し、日本の武道として始めた人は誰でしょうか。どこで唐手術から空手道と改名されたでしょうか。
解説 船越義珍(ふなごし ぎちん)
(参考)沖縄出身の船越義珍は、小学校教員として子供たちの教育に携わる傍ら、安里安恒(あざとあんこう)と糸州安恒(いとすあんこう)に唐手術(とうでじゅつ)を学び、1924年、鎌倉円覚寺の住職の指導により唐手術から空手道と改名を決意。1930年慶大唐手研究会が機関誌「拳」第1号において「唐手」を「空手」に改めるが、公式には認められていない。そのため、1935年嘉納治五郎の推薦により唐手術拳法として大日本武徳会の柔道部門として入会が認められ、1938年から大日本武徳会が正式に唐手術拳法の名称を空手術と改められた。
 船越義珍が「唐」を「空」にしたのは、単に中国(唐)からの影響を否定しようとしたためではない。彼は「空」を求めようとしたのである。空の先には、悲惨という文字が存在しない社会だったのだろうか。船越義珍の人生は、時に革命と思えるほど大胆な決断を行い、老人とは思えない青年のような公明正大な心を持つ常に熱き空手道の開拓者だった。戦時中を生きた平和を願う一人の老師の叫びだったのかもしれない。この空手改革の創始者の精神を歴史に残すため、船越松涛館門下一同による松涛同門会により鎌倉円覚寺に空手家達の活躍を見守る記念碑(「空手に先手なし」)が残されている。この精神は空手修行者の誰もが学ぶべき重要な心得でもある。

【参考】船越義珍翁記念碑文(鎌倉円覚寺)
  空手道の始祖 船越義珍は、明治三年十月十日(明治元年十一月十日)沖縄県首里市に生を享け、十一才(十三才)の頃より安里安恒、糸洲安恒の両師に学び、その奥義を極めて大正初年沖縄尚武会会長に就任、大正十一年五月上京爾来、空手道の指導に専念、昭和三十二年四月二十六日、八十八才を以て天寿を全うされる迄斯の道の普及と向上に全魂を傾倒された空手道は先生によって唱道されたが、その主眼は伝来の唐手術の理念の換骨奪胎にあった空は武芸の極致は己を空しうするにあるの意であり、道は術から武士道への醇化を志向されたものであることから、「空手に先手なし」「空手は君子の武芸」の金言を以て術の乱用を戒められたのもこの理解に基づくものである。
 空手道の始祖としての先生の遺徳を偲び、その功績を顕彰するために門下生の有志により松涛会を結成し、拳禅一致の訓言に因みここ円覚寺境内にこの記念碑を建立する。
 昭和四十三年十二月一日 大濱 信泉 謹書

注1 : 戸籍上の生年月日は明治三年とあるが、当時医学校には明治三年以降の条件があり、父親が明治三年十月十日と届出たことによる。正式には明治元年十一月十日に生誕されている。
注2 : 大濱信泉(第7代早稲田大学総長)氏は、廣西元信氏らと共に戦後の早稲田大学空手部の早期稽古再開に尽力。


講義5.人格完成の道とは何か。
解説 船越義珍は、人格完成の道を目指す空手道の道を求めた。人格完成とは、二千五百年前に実在した孔子が15歳で志した道である。孔子が目指した道は、自分の実生活に直接役立つ道(処世術)ではなく、人生の本道を探求する徳を積む道(世のため人のために尽くせる人になる)であるという。
 自他共の悪の心に対して、真正面から戦う勇気と多くの迫害にも負けない力を持ち、現在、過去、未来に人に希望を与えるような影響を与えて行かなければいけない。また、絶対正しいと思って突き進んでみたら間違っていた、そういう間違いを起こさないように冷静沈着な知性と理性を備えなければならない。船越義珍は神業を持つ達人ではなく、拳聖としての多くの人を守る事ができる達人であったと言える。もし、船越義珍が生きていたならば、武道家の立場から世界で起こる人と人が争う醜い争いに対して共に泣き、自分の事のように自分の命を顧みずに、自分が今できる事に取り組んでいたことだろう。
 
講義6.船越義珍の格言「空手に先手なし」とはどのような意味か。
解説 空手道は武技・武術として極めて有用ですが、護身術として用いなければならない。人間関係に置いては自分に非がなくても、様々な罵声や非難を受ける事があります。しかし、それを理由に感情的に怒ったり、暴力で解決しようとすることは厳禁で、まず相手との冷静な対話で物事を解決させなければならない。ただし、それでも相手が暴力を持って攻撃を仕掛けてきた場合に、初めて立ち上がることが原則。そのため、空手道の形の全てが、まず受けから始まり、完全な防御を行った後に反攻に転ずる形で構成されています。つまり、正義を守るため、暴力から隣人や自己の安全を確保するために行使する時だけ、空手道の技の使用が認められており、例えどのような理由があろうとも、決して自分から手を出してはいけないという精神が基本となっています。

講義7.空手道の空にはどのような意味があるでしょうか。
解説  禅(ぜん)の経典である般若心経の「色即是空」(しきそくぜくう)「空即是色」(くうそくぜしき)の空の精神である。
意味:般若心経の意味は、「色(形あるもの)はいつか空(滅)する。そのような価値にとらわれることなく、空(無心)の立場に立って自由な発想や生活がなされた時、すべてを生かす(色)妙有(みょうう:すばらしい存在)が実現する。」という意味であるが、それを武道としてとらえるならば、「自分本位の立場を目的とした意識的(傲慢)な技を捨て、心身の自然体・平常心における無意識(無心)の状態における心技体の調和な技術と人間性の修練が、人との争いを超えた共生共栄の道が開けていくことができる」と解釈できる。
 人類は国、貨幣、宗教など虚構の物を現実にする力がある。それは他の動物にはできず、人間だけが持つ創造力である。これらは全て現実には存在しない無のものであるが、現実に存在する価値として意味を持たせている。アップル創立者のスティーブン・ジョブズは現在世の中に無い物を想像し、数年後には想像したものを新たなデジタル機器として世の中に誕生させている。人は想像しないと何も生み出せないが、想像すれば何でも生み出せる可能性を持っている。未来は想像と願いで争いのない平和な世の中が来るかもしれない。無と色は人が持つ理念と想像によって、全てその境界線を越える。

講義8.日本空手道松濤會の歴史 − 武道空手の継承 −
解説 日本空手道松濤會は、終戦前から存在した船越義珍が初めて日本本土で創設した松濤館道場を継承し、松濤館空手の空手道会である。船越義珍は空手道によって人間形成の一翼を担い、多くの人々の人生を輝かせる事ができる理想の空手界のあり方を追い求める生涯を貫かれました。その志半ば生涯を終えられた後、この志を引き継ごうとする多くの熱い思いを持つ弟子たちによって失いつつあった武道家としての生き方を取り戻すために組織を再編して新たに日本空手道松濤會を再発足させている。船越義珍が興した大日本空手道松濤會(旧大日本空手道研究会)は1958年に大日本空手道松濤會を発展的に解消し、戦後、空手が競技化されるなどスポーツへの道を進む中で、船越義珍の長男である船越義英は父・義珍が死去した後、船越義珍の遺訓(「型に忠実であれ、空手に試合はない」)を守るべく、日本空手道松濤會第二代会長に就任した。前身となる大日本空手道松濤會は、関東諸大学を含む全国の道場における松濤館流の全盛期を誇る空手道の活動を行っていたが、武道禁止令により一時活動を停止させられていた。その間、多くの大学空手部がスポーツ空手の道に進んだが、武道禁止令解除以降にスポーツ空手に進む空手家とは別の道として、大日本空手道松濤會の理念を継承する松濤會空手の稽古を再開させている。松濤館流門人だけでなく多くの有名空手家が学び、近代空手道の歴史を築き上げた日本空手道を代表する空手道場の一つでもある。
 近代空手道の父である船越義珍は、沖縄唐手術を日本が誇る伝統武道への創業の精神に基づいて進められました。空手界はスポーツ空手を中心として益々新興武道として発展し続けている。その時代の中にあって、礼儀正しく、和を尊ぶ日本人の美を愛する国民性は、世界の国々から日本の伝統武道の崇高な精神性として高く評価されている。しかしながら、時代が成熟する中でこのような日本人の国民性が失われつつあるのも事実である。空手道だけでなく、剣道などの日本武道の歴史は、中国の達磨大師が開いた禅の思想に影響されている部分が多い。禅の世界の侘(わ)び・枯淡(こたん)など静寂で人生の儚(はかな)い一面に、逆に一つの光を与えて美意識と人生の素晴らしさを求める生き方の中には、武道の技の追求と同様に人間性の極みとして重要な目的意識を持っている。外見は派手さを求めない質素な振る舞いを持ちながらも、内面は嘘や偽りのない究極の強さと淡くて純粋な美しさを求める。そして、稽古生の誰もが一流の空手家を目指し、誰にも負けない世界一の武道家になろうと懸命に努力を生涯続けている。私たちは競技試合には武道性の理念を守るためにあえて競技には参加しませんが、空手道の大会で優勝を目指す事や高段位の取得を目指す事がいけないという考えは持ってはいません。競技も高段位を目指すことも技を磨く上での有効な稽古の手段の一つであることには間違いはありません。しかし、競技の栄光も高段位を取得することも、稽古意欲を高めるための一つの方法であり、私たちが空手道によって最終的に目指さなければいけない道は誰もが素晴らしい人生を送れるような道にしなければいけないということです。空手道で最も大切な事は、人との比較にとらわれたり、稽古を片寄らせる事がなく、勝つ事だけにこだわらない自由な発想で、空手道の心を学ぶ事が重要である。人生は、出世や金儲けをすることだけが目的ではない。武道の多様な考え方から得られた鍛錬と価値観を日常の生活に生かすことにより、自分の人生をより豊かに変えることができる。
 これからも時代の流行にとらわれない武道として、日本の伝統文化の中に伝え継がれた豊かな情緒が日本人の国民性の支えであり続けることを願い、船越義珍の空手道への「高い志」と「威厳ある品格」を守るという保守の立場から、武道空手の存続のためにひたむきな情熱を持ち、どんな時代になっても果てしなき武道空手の道であり続けようとしている。伝統武道・武術の多様な教育的価値は自信に満ち溢れた個の確立につながり、人格形成に大いに役立つことは何よりも宝である。これからも松濤會空手は強者の優位性ではなく日本の心である道義的優位性を持つ質の高い武道を目指し、空手道は武術の強さだけではなく、己のためだけでない人に感謝と奉仕する心。そして、人徳も共に評価されるべきであるという船越義珍の理念に基づき、法曹界、実業界、教育界などで多くの人のために役立つことができるリーダーを育成して、より良き時代を見据えるために松濤會は存在している。近代空手道の形成に大きな役割を果たした歴史を持つ空手団体である。

※ 侘(わ)び:意味、日本の美意識の一つである。質素で静かなもの。
※ 枯淡(こたん):意味、人柄などが練れて、淡々とした中の深みのある人柄。


講義9.近代空手道の誕生について
解説 時代の流れの中で、すべての物事が栄枯盛衰する世の中、武道も例外なく多くの達人により武術が確立し、多くの武術が人への危険性から一般に受け入れられることなく廃れていった。武術の発展には、優れた武術の達人の存在が必要であるが、その武道が社会で存在すべき意義を体系化・理論化できる優れた文人の存在がない限り一般武道として大成することはできない。その時代の流れの中で、船越義珍は、柔道の嘉納治五郎の指導もあり、沖縄秘術(唐手)を近代空手道として体系化・理論化に挑戦した。空手が一般社会に受け入れられるためには、@稽古生が安全に学べること。A空手道を学んだ人を社会で役立つ人に育てること等の課題は、柔道と違い人への殺傷能力の高い空手道には難しい課題であったと思われる。それを克服したのが、儒教と禅による精神の教育と社会で生き抜くための忍耐強い精神を養うための教育方針である。船越義珍は空手道二十訓を定め、人生の指針となる基本理念を定めた。この中に、技術的な教えは全くない。このような倫理観を持って空手道を学びなさいと諭した言葉であるからである。空手道で得たものを生きる力に変えるためには、空手技術よりも道義心や精神力の方がはるかに役に立つことを船越義珍は物事の本質として理解していた。
 1922年、文部省主催第一回運動展覧会に参加して琉球拳法(空手)を紹介したことが、日本本土における空手普及の第一歩となる。船越義珍は長期滞在を決意し、まさに国家の新しい大道を開こうとする激動の時代を生きる若き青年に思いを託し、慶応大学空手部の創部以降、翌年東京大学、拓殖大学、一橋大学、早稲田大学、中央大学、法政大学、専修大学等の関東諸大学に空手道の指導を直接行っています。船越義珍が関東の有名大学の学生に空手道の指導を行ったのはただの偶然ではない。船越義珍は小学校準訓導の資格をとり、21歳で教壇を取って校長で退職するまで一貫として教育界で身を置いており、空手道の普及は青年育成の第二の人生として進めています。空手道の精神は大学の学問の独立の精神とつながり合います。「学問の独立」は、何物にも縛られる事のない真理の探究を目的とし、「在野精神」「反骨の精神」を意味している。その理念は早大、慶大等のように自主独立の精神を持つ近代的国民の養成を理想として、権力や時勢に左右されない独立した立場で科学的な教育・研究を目指す理念は、そのまま空手道の精神に置き換えることができる船越義珍が真に目指すべき空手界の理想であった。当時の多くの大学生は卒業後に責任ある立場で、社会において活躍することが約束されている未来ある若き青年であった。松濤會大学空手部出身者の中には、上場企業社長、政務役大臣、大学教授、法曹界などの社会の一線で活躍する人材を多く輩出している。ただし、当時の船越門下生たちは皆が優秀な学生というわけではなく、むしろはみ出し者が多かった。多くの大学空手部の学生は貧しい生活の中で、ただ自らの才能だけを信じてひたむきに努力し、自らの内から湧き出て止まない若い生命の熱と意志、理想と精神のすべてを注ぎ込んで空手道の稽古に励んでいる。夢と希望に満ち溢れ、決して自分の可能性を疑うことのない闘争心に漲った学生たちだった。船越義珍は武道家である前に、教育者として子供たちを心の底から尊敬し、立派な青年に育てたいという強い想いがあった。船越義珍は格闘技術を身に着けて、それを活かせる職業にすることなどは全く望んでいない。空手部の学生は豊かな教養を学問から身に着け、それを補完する役割として武道から得られる「強い者は弱いものを助けるべき」であるという道徳性を備えさせ、社会の立派なリーダーへと育成させる事こそが空手教育者の役割であると考えている。自分自身で目の前にある人生の問い、社会の課題を自ら見つけ出し、その難しい課題に勇んで挑み続けるために学問と空手道を学ぶ。そして、自分自身で鍛え上げた頭と力で、少しずつ社会を変えていくことこそ真の空手道のあり方である。大学空手部は大学教育の一環の存在であり、決して大学理念からかけ離れた存在ではなく、むしろ立派な青年を育成して社会に送り出す使命がある大学の理念を後押しする武道であると考えていた。その理念こそは職場、地域社会、家庭等のあらゆる場に大きな影響を与えてくれるものと船越義珍は信じていた。
 その後、多くの大学卒業生は船越師範の期待に応えて、実業界、法曹界、教育界など様々な世界で活躍をしている。しかし、社会的な地位の高低、財産の価値は人の人格や能力を判断する一つの物尺であり、それがすべてでも船越空手が目指した真の道ではない。船越空手の門下生たちの評価できる点は、社会の荒波の中でも船越師範を絶対的に信じ、自分の強い意志を貫き通したことである。大学卒業後に社会人として待っている世界は、約束されたユートピアであるとは限らない。むしろ、逆に多くの卒業生に待っている現実は、社会の多くの問題に立ち向かわなければならない地獄のような日々が待っている人が多いに違いない。そのような現実でも学生時代に厳しい稽古の中で、既にその苦しみを乗り越えるための術を心得ている空手部員にとっては、何があっても揺るぎない人生の第一歩になる。また、大学空手部の卒業生の中には、平凡な庶民生活を送られている人の中にも人格・学識の優れた立派な人もいる。地位・財産に恵まれている人の中にも品性の劣悪な人もいる。単に武術が優れているということでない、生涯武道として人格を磨き上げ、例え無名でも誰かの役に立ち、多くの人から敬慕されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成こそ船越空手の魂である。1936年、多くの大学空手部関係者の尽力で大日本空手道松濤會を発足させ、戦後に新たに日本空手道松濤會は船越義珍の遺言である日本空手道松濤館を再建させている。その他、皇族・華族のための教育機関として開校された学習院大学、成城の城は国を指し国を成すの意(知達の士は国家を興隆させる者)である成城大学、東京帝国大学内での変遷を経ている国立大学東京農工大学等の大学に空手部が創設され、伝統と歴史ある大学空手部の若人たちは松濤會空手を担っていくことになる。また、船越義珍の人徳と若い行動的な知識人である大学生との結びつきは、師弟関係をより一層深めて、「毒を変じて薬と為す」というように危険な武術を有益な日本の文化である「空手道」を20世紀に確立させていった。

講義10.空手道四大流派の誕生
解説 1922年、沖縄の唐手術を日本の伝統武道にすることを実現するため、安里安恒(あざと あんこう)・糸洲安恒(いとす あんこう)門下の船越義珍は、日本本土の空手普及の第一歩を進めると、その思いに賛同した船越義珍の友人である摩文仁賢和(まぶに けんわ)も1929年頃本土に渡り、大阪を拠点として糸洲安恒と東恩納寛量(ひがおんな かんりょう)の形を総合して糸東流を開いた。
 日本本土で開花した松濤館流・糸東流は、その一部が柔術系統に吸収され、ここから新たに船越義珍門下であった大塚博紀(おおつか ひろのり)も和道流を誕生させている。また、東恩納寛量門下の宮城長順(みやぎ ちょうじゅん)は沖縄を拠点としていたが、1929年頃短期に関西大学・京都大学・立命館大学で指導したのを機縁に剛柔流が関西地方から広まった。
 これらの経緯により、松濤館流(船越義珍)、糸東流(摩文仁賢和)、剛柔流(宮城長順)の沖縄県出身の3人の師範たちと和道流(大塚博紀)師範の志は、無名な唐手武術を日本の伝統武道にするという夢を中心としてお互いの絆を深めた。そして、四人の師範たちは、空手道を日本の伝統武道に発展させるだけでなく、太平洋戦争末期の沖縄戦により多くの命が失われた歴史を持つ沖縄県民の武道家の思いとして平和の尊さを伝える世界武道への夢が込められ、その実現の一歩を踏み出すきっかけを作った初期の空手道功労者として四大流派と呼ばれている。


講義11.武道空手の復興に夢を駆けた熱い男たちの物語
     − 志ある先人の武道家たちの霊にささげる −

@(琉球拳法唐手の本土普及へ)
 日本の空手道は中国の拳法が沖縄に伝来し、新たに琉球拳法唐手と称する武術に発展した。それが日本本土に渡り、日本の武道として剣術の精神を受け入れながら近代空手道として新たに生まれ変わった武道である。そういう意味ではインドから中国のシルクロードを経て日本へと伝来した仏教の歴史に似ている。中国拳法の起源が嵩山少林寺拳法である諸説が正しいならば嵩山少林寺は禅宗の発祥の寺であり、少林寺拳法の発祥の地でもある。インドの釈尊の仏教の教えは宗派が乱立し、民衆を救済するという根本的な思想だけは全て同じだが、それぞれ異なった修行をしている。しかし、今の仏教界では敢えて一派に統一させようとしたり、優劣を競ったりすれば争いの基であるため、お互いを尊重して認め合う事に努めている。それは空手道の世界も同じであり、空手道の流派が乱立し、空手界を柔道のように一派に統一しようとすることは争いの基であり、お互いを尊重しながら稽古に励むことが必要である。
 琉球の唐手は昔から秘密裡に稽古が行われ、門外不出として人前で行われる事は決してなかった。明治中期に士族階級の没落と共に、唐手の稽古に励む人々は減少の一途を辿っていました。しかし、唐手が新たに脚光を浴びるきっかになったのが、明治になって富国強兵に基づく学校の教育現場に唐手が導入された事がきっかとなった。日清戦争後、明治政府は近代国家の建設のための一つの手段として、唐手を1901年に沖縄県首里尋常小学校において正式に学校体育の一部に採用した。船越義珍の最初の師匠である安里安恒は社会的な地位で言えば唐手術の達人だけではなく、琉球王国の最後の国務大臣として伊藤博文(元初代内閣総理大臣)、天皇家など著名人と直接の友好関係を築くなど政治的にも実力者であった(引用先:空手道の神髄)。当時の日本は日露戦争に勝利し、第一次世界大戦後(1914年から1918年)、多くの国が欧州を中心に国際連盟創設などの動きに対して、次の大戦に向けた安全保障に対する危機意識を高めていた。日本の国家元首も日本の行く末を案じ、様々な分野で日本の安全保障に向けて新たな取り組みが開始されました。昔、唐手が秘密裡に稽古された門外不出の背景には、1429年第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が誕生して以来、大和(日本本土)、中国(明)及び朝鮮半島(李朝)との貿易によって繁栄し、中国拳法は琉球と中国との貿易で伝来することになるが、外交が活発になることにより争いも絶えなかった。中国皇帝の臣下となることを強制され、薩摩藩から属国とされた時代でもあった。歯向かえば小国の琉球王国は強大な力を持つ中国や大和の国に滅ぼされる危険もあり、「拳を争に使う者は、皆、拳によって滅ぼされる」と琉球人たちは古から拳法を争いに使うことは避け、琉球の平和を願い守り続けてきた先人たちの大切な教えである。その昔からの言い伝えは、世界大戦という大きな時代の流れの中で破らなければいけない時が訪れることとなる。
 1916年、船越義珍が「御大典記念祝賀演武」(京都武徳殿)において唐手術を紹介し、1921年、昭和天皇(当時、皇太子)が渡欧の際に沖縄に立寄られ、船越義珍は沖縄の首里城正殿の大広間に於いて唐手術の指導を拝命し唐手演武を台覧した。この時の演武は偶然に昭和天皇が沖縄に立ち寄られて実現したものではなく、沖縄出身の御召艦「香取」の大日本帝国海軍艦長という名誉を担った漢那憲和海軍大佐(後に国会議員)の縁で実現したもので、唐手演武は皇太子(後に明治天皇)に剣道及び柔道同様に国民の強靭な精神と肉体の育成に適していると強い興味を与えた。船越義珍は唐手術の本土普及の取組みに向けて、天皇陛下の大きな力の後ろ盾を得ることになる。今で言えば内閣総理大臣の後ろ盾を得て、公に日本で唐手術を普及することが許可されたことを意味していた。当時の明治憲法は天皇は象徴ではなく国家元首であり、国の代表として判断権限を持っていた。天皇陛下に認めてもらえれば、明治政府も関心を持たざるを得ない。現在のように何でも自由が許されていた時代ではない。戦前の日本では大日本帝国憲法下で検閲が行われ、出版法、治安維持法等で表現活動は著しく規制され、憲兵によって思想信条に関しては激しい拷問などで取り締まりを受けていた時代である。何か大きな事を動かすには、政府の許可なしには何もできな時代、幕末以降は銃刀の所持の制限、国家反逆や人々の思想信条に大きな影響を及ぼす危険のある新たな武道の普及ということであれば簡単に許可はされない。この時代に本土で公に剣道及び柔道のように武道の普及を認めてもらうためには、天皇陛下の統治下である明治政府及び大日本武徳会から武道普及の理解を得る必要があった。1935年、空手道教範(著書 船越義珍)を天皇陛下に献上するなど、空手道の国技化への意識は高まっていった。1922年、文部省主催の第一回古武道体育展覧会に参加するために沖縄より上京し、唐手を本土初となる公開演武を行った。その後、空手演武が高く評価され、1924年慶応大学、1926年東京帝大の唐手研究会に船越義珍が師範として迎えられる。船越義珍が沖縄を代表して初めて本土に唐手を伝える重要な役目を担ったのは、ただ武術が優れているだけではなく琉球人の精神が培われた唐手の正しい理念を最高学府の大学から教育界全体に普及するためには軍人ではなく、教師経験を持つ人材が必要であった。その適任者の一人として小学校の教師として校長になるまで長年に亘り教育界に身を置き、唐手の稽古を続けると共に多くの人から尊敬されている船越義珍が選ばれることになった。その想いは唐手術を数十年かけて地道な道場による普及ではなく、短期間で日本全国の小中学校の中で唐手術を広める事で国民体育教育に浸透させることに積極的な師匠である糸洲安恒は、船越義珍ならこの重要な仕事を果たしてくれると期待し、唐手の本土普及を船越義珍ならやり遂げてくれると全ての想いを託したからである。船越義珍は沖縄県人として本土の人に一目置かれる存在として天皇陛下から迎えられたことはとても誇らしく、今こそ平和のために唐手を通して沖縄文化と沖縄人の存在を知ってもらいたいという思いを馳せていたことだろう。その重要な仕事のために本土に向けて出発した。しかし、第二次世界大戦(1939年から1945年)の機運の高まりの中で、船越義珍のその本土普及への純粋な想いは個人の身を守る護身術から国の危機を守るために唐手術が軍事教育に活かそうとする軍部からの機運の高まりと共に一瞬で打ち砕かれることになる。その後、船越義珍は生涯にわたって実戦組手に反対することになるが、それは彼にとっては反戦を意味していた。武術の目的は喧嘩や戦争を目的とした武道ではなく人格完成が稽古の最大の目的であり、武は平和の道に活かしてこそ意味があるとする軍国主義と相反する意義を唱えた。1940年頃に小説家で有名な戸川幸夫が松濤館に入門される際に、船越義珍から入門の理由を聞かれた。その時、戸川幸夫は松濤館で武術を使う事のない護身術を学びたいと答えたという。それを聞かれた船越義珍は「人と戦って勝つためとか、ただ強くなりたいとかで来る人も多いがそんな人は関心しません。武道は心です。心構えが何よりも肝要です」と言い入門を許されたという。実戦組手を広めたい金城裕などからは、船越義珍の争いに唐手術を使う事に慎重な態度に、唐手術は争いに勝つ事が目的であり、その指導方法では唐手を学ぶ意味が全くないと船越義珍の唐手理念を完全否定し生涯対立姿勢を示した。
 近代空手道の草創期(1930年代)、唐手術の大衆化への普及に際して、唐手術は喧嘩に使われたら危険であるという理由から一般に普及する事は多くの関係者から一時見送られた。しかし、唐手の精神を体得して正しい教え、正しく習い際すれば、唐手術は危険どころか、教養ある紳士の武術であると大学唐手研究会から支持された。船越義珍が日本本土の唐手普及の第一歩を大学の部活動で認められると、多くの空手家が海を渡り本土普及を目指した。関西を中心として船越義珍の友人である摩文仁賢和が1929年に本土に渡り、大阪を拠点として糸洲安恒と東恩納寛量の形を総合して糸東流を開いた。また、東恩納寛量門下の宮城長順は沖縄を拠点としていたが、短期に関西大学・京都帝国大学・立命館大学で指導したのを機縁に剛柔流が関西地方から広まった。東京帝大の師範については当時日本が軍国化に進む中で、唐手研究部員たちは唐手術を実戦で活かすため、実戦組手と試合化実現に向けて国民の強靭な体力促進のための重要な役割を担っていました。それに対して、純粋に唐手術の本土普及を目指す船越義珍は平和教育を理由に喧嘩や戦争を目的とした実戦組手の稽古を反対し続けました。学生たちにとってはなぜ護身術と言えども実戦に使うための格闘技を実戦のために稽古を行ってはいけないのか。禅問答のような説明に学生たちは納得ができず、船越義珍と学生との間で意見の衝突がありました。東京帝大は帝国主義時代に官立学校として軍部支配下の基に終戦まで存続した大学であり、現在の東京大学とは設立の趣旨も教育方針も全く異なる将来を約束された優秀な学生たちである。元沖縄の小学校校長と言えども、幕末時代の坂本龍馬同様に下級武士出身の船越義珍は既に本土への空手道普及のために小学校校長を辞めており、空手道師範と言えども身分は軍人よりも低く、学生たちに何でも自分の意見を言える立場ではなかった。沖縄拳法唐手を日本の国技として本土に広めるに際しては、日本と対立する中国の中国語を想像させるピンアンなどのカタカナ読みは認められず、公用語である日本語の漢字の平安に変える必要があった。更に武術の技の強化よりも学生の強靭な体力作りを強化し、沖縄拳法唐手を日本の空手道として確立させるために、立ちを低くするなど大幅に変える必要があった。この背景には明治になって徴兵制が課され、軍事教育の基礎体力向上を目的として唐手術を視学官の小川ユ太郎が文部省に報告したことで学校教育の中で取り入れられていった。当時の日本では戦争によって莫大な利益をもたらし、戦争を美化する状況は更に高まっていた。県立第一中学校の空手師範には糸洲安恒、体操教師には花城長茂、師範学校の体育教師には屋部憲通が招かれた。花城長茂及び屋部憲通は中学校で唐手を指導する前は陸軍に入隊し、花茂長茂は日清戦争及び日露戦争に従軍した。日清戦争等で沖縄の多くの唐手家たちが出兵し、戦争の勝利の中で日本の立場をより強固なものとする時代の必要性から唐手術は中国文化とは全く関係がなく、純粋な日本文化の武道であることが強調された。そのため、「人をどうすれば殺せるか。これを追求する稽古こそが空手道である」と誤った空手理念を抱く学生も次第に多くなっていった。その時代背景から唐手術は剣術のように昔から戦争で使用する事を目的とした武道であると強調し始めると、船越義珍は唐手術は戦争を目的としたものではなく、人格形成を目指す護身術を目的とした紳士の武道であると誤りを説いた。人を殺す事を目的に唐手術の稽古をするなどもっての外であると、怒りをあらわにして戦争に使う唐手術は唐手術にあらずと実戦組手の取り組みを反対しました。この頃から船越義珍は実戦組手という言葉に過敏になり、稽古生たちに強くなることよりも弱くなることをすすめるなど稽古の本来の目的とは真逆の指導を始めた。稽古生たちは「私たちは強くなるために稽古をしています。なぜ、弱くなるために稽古をしなければいけないのか」、船越義珍に問いただすと「今は分からないかもしれない。しかし、いつか分かる日が来る」、それだけを答えて何も説明はされていない。平和な時代を生きる私達には理解できないかもしれないが、戦争反対など口が裂けても言えない時代、そして師範と弟子は親子以上の愛情の深い関係である。国のための聖戦と言えども、我が子は愛しい、子供を死なせる危険な目には会わせたくない。親心子知らずという諺同様に親は何も言わなくても子を守るのが親心である。船越義珍は唐手術の精神的あり方として「唐手に先手なし」と説き、宮城長順は「人を打たず人に打たれず、事なきを基とする」と説いた。唐手術は武道の中では仏教から生まれた平和を希求する例外的な異端児の存在である。戦争体験のない東京帝大の若き青年には船越義珍の言う事はただの臆病風を吹かしているとしか思えず、日本人の質実剛健の精神教育のために格闘技である唐手術を闘争として活かそうとする取り組みを止めようとしたため、僅か3年(1929年)で東京帝大唐手研究会の師範を自ら辞任しなければならなくなった。ここには「やられたら、やり返す」武士の剣の思想を持つ大和文化と「やられても、やり返さない」平和主義及び非暴力の拳の思想を持つ琉球文化との根本的な思想の違いがある。戦争には勝っても負けても、参加した国は多大な犠牲者を出し、そこには家族や大切な人たちの命が奪われることになる。もしこれが国同士の争いに活かすための富国強兵を目的とした実戦組手の稽古でなく、自分の身を守ることや誰か身近な大切な人を守るための人道的な明確な稽古の目的として実戦組手及び試合組手を行っていたならば船越義珍は反対しなかっただろう。船越義珍の唐手は戦わずして勝つ、その理念の実現こそが船越唐手の神髄である。

A(沖縄拳法唐手の誇り高き精神)
 1929年、船越義珍は慶応大学唐手研究会の仲立ちで円覚寺に参禅し、釈宗演禅師の弟子である古川尭道管長に日本本土で唐手術を普及する事に関して仏教思想の観点で意見を求めています。船越義珍の平和理念を支えたのは、福沢諭吉が創設した慶応大学の唐手研究会であり、唐手時代の歴史文化及び唐手技の稽古方法を研究し、本土に空手道を普及するための空手界の未来構想を作り上げていった。1884年今北洪川老師の反対を押し切って釈宗演禅師は27歳で慶応大学入学、福沢諭吉と親交を深めており、1893年のシカゴ万博博覧会の一環として開催された万国宗教会議で福沢諭吉から資金援助を受けて臨済宗代表で参加するなど、慶応大学と円覚寺との間柄は深い友好関係である。その慶応大学唐手研究会の空手構想に基づき、東京帝大、早大等の関東大学の多くの学生たちに空手道は広まっていった。それにより、空手道は日本の本土で流派が乱立し、沖縄の空手と本土の空手の間で本家争いなど空手界の混乱の歴史を迎えることになるが、空手道の稽古の本来の目的は流派同士の権限争いや誰が一番強いかを競い合う武道ではない。空手道の本来の目的はいかなる理由があれども平和を求める心が最も優先される。この平和理念により互いが歩み寄り、心を一つにして争い事も次第に鎮められた。この事が空手道の平和武道への歩みと共に戦争によって消滅することなく、多くの大学空手部は異体同心で現在も空手道を楽しむことができている。現在、円覚寺の境内には1904年に日露戦争の従軍司教として従軍した釈宗演老師による日露戦争の戦没者の慰霊塔(護国塔)があり、その手前に世界平和を願う船越義珍の「空手に先手なし」という記念碑が朝比奈宗源老師の名で1968年に建立されている。「空手に先手なし」という教訓は、空手は決して好戦的な武道ではなく、平和の養成を最重要課題とした武道を意味している。朝比奈宗源老師という方は1945年の終戦の年に円覚寺管長にご就任された方であるが、円覚寺で初めて日々の生活に悩み・苦しむ民衆のために円覚寺を開放し、仏教思想により生活の悩みを解決に導こうと毎月説教会を仏教に縁がない一般参拝者を対象に開催し、禅の修行の傍ら横濱専門学校(現在、神奈川大学)講師、駒澤大学教授にご就任され、平和の大切さを学生たちに力説するなど戦後復興に尽力をした一人の偉大な僧侶である。空手道の研究として時代背景の影響により、国の方針として軍国主義に活かそうとする大学と純粋に学校教育に活かそうとする大学の特性によって空手道の研究のされ方が変わるのは当然である。早大、慶大等のように自主独立の精神を持つ近代的国民の養成を理想として、「学問の独立」は何物にも縛られる事のない真理の探究を目的とし、「在野精神」「反骨の精神」を意味している。政治権力や時勢に左右されない独立した立場で科学的な教育・研究を目指す私立大学の自由な理念は、そのまま空手道の精神に置き換えることができる船越義珍が真に目指すべき空手界の理想の姿であった。船越義珍を会長とする松濤館は空手道の武道化に際して、兵法(戦争術)の理念を否定し、平法(武は平和の道)を根本とした稽古指導を徹底されることになる。円覚寺は鎌倉時代後半の弘安5年(1282年)、北条時宗(鎌倉幕府第8代執権)が円覚寺を北鎌倉に開山され、700年以上の長い歴史を持つ歴史ある禅寺である。禅と空手道の歴史は共に中国禅の開祖と言われている中国嵩山少林寺の達磨大師が源流であり、船越義珍著書の空手道教範には沖縄拳法唐手は達磨大師が伝えた嵩山少林寺拳法が沖縄に渡ったものであると記されています。禅僧と言うと社会から離れ、座禅で悟りを開き、生涯を終えると考えられるがそうではない。釈宗演禅師は日露戦争の終結の年に渡米、1906年6月ワシントンでルーズベルト大統領と会見し、鈴木大拙(宗教学者)の通訳を介して世界平和について語り合っています。船越義珍は唐手術をどのようにすれば日本のためになる武道文化として、これからの日本を担う青年たちに軍国化と異なる平和武道として唐手術を確立させることができるのかが大きな課題だった。それにより中国からの影響を受けた唐手術から新たな日本の武術として唐手術を発足させるにあたり、唐手術の真の意味を教えるために「唐(から)」の文字を仏教の「空(くう)」の文字を引用して空手道へと改名しています。ただし、1902年、船越義珍が「琉球新報」に「唐手の歴史」を掲載する際に、徒手空拳から引用して「空手」と改称したとする説と1930年慶大唐手研究会が機関誌「拳」第1号で使用したとする説があるが、空手道の文字を公式に用いるためには船越義珍が勝手に個人的な見解で当てた文字を使用しただけでは、伝統武道として沖縄県で従来から存在する唐手を簡単に空手と名称変更する事は政府や大日本武徳会では認められない。公式に武道名を改称して公に認めてもらうためには、武道名の改称理由及び今後の活動目的等を空手界全体で協議した上で武道活動を取りまとめている団体(大日本武徳会)及び日本政府の了承を得なければならない。そのため、実際に公に唐手術拳法が認識され始めたのは少し遅れて1935年嘉納治五郎の推薦により沖縄県の「唐手術拳法」を柔道の関係部門として大日本武徳会への入会が認められた。また、1936年宮城長順が沖縄県の護得久朝昌保安課長に唐手術拳法の名称を廃して「空手道」と改称することを申し入れた頃から関東地域だけでなく関西地方も含めて全国的に一斉に唐手術から空手道に改称され始めた。その後、摩文仁賢和(糸東流開祖)、宮城長順(剛柔流開祖)、大塚博紀(和道流開祖)、その他の空手界を代表する有名空手師範を含めた全員の合意の下で、1938年大日本武徳会が正式に沖縄県の「唐手術拳法」を沖縄県のみの地方武道ではなく日本の伝統武道の一つとして「空手術(空手道)」と改めることを認めた。
 空手道の「空」の文字は多くの意味があり限定的な解釈はありませんが「空」には慈悲の意味もあり、人類の平和と幸福への願いが込められた争い事を戒めた一文字と言われています。船越義珍は安里安恒師範の指導の下で、仏前で決して私闘には空手道を生涯使わず、精神修養の空手道の発展を誓っています。そのため、争いを避けるために自由組手(実戦稽古)は一切行わず、自身の筋骨を鍛えて日々の生活に活かし、いざという時以外は空手道を使ってはならないと指導をされています。先人たちはなぜ自由組手及び実戦組手の稽古を反対するのかという問いは、なぜ僧侶は欲を断とうとするのかという問いと同じくらい難しい難問なのです。船越義珍は人間が本来持っている闘争本能を断ち、その先にある人類が求める壮大な夢の実現に空手道が貢献できる未来を描いた。実戦を意識せずに型を中心に稽古すれば心穏やかに生涯争いに使う事を忘れることができるが、競技も含めて実戦を意識して闘争本能剥き出しに稽古すれば必ず実戦に使って試したくなります。その結果、誰かが死傷し、誰かが不幸になります。格闘技の勝利には後悔と虚しさしか残らない。勝っても愚劣、負けても愚劣というのが武道の勝負の世界である。武道の勝利は無上の高揚で感覚を麻痺させることなり、力の裏付けが暴力を正当化させているところがサッカーや野球のような清々しいスポーツマンシップの勝利とは少し異なるところです。また、自由組手をしないならば、実戦で使えないと思う人がいるかもしれない。しかし、そうではありません。沖縄の唐手の稽古では既に流派によっては積極的に自由組手は行われており、その効用による利点と欠点は実験検証済みであった。型はそもそも実戦の動きを想定した繰り返しの稽古である。自由組手を行わずに実戦の動きを型で学べばいざという言う時に身体は自然に動くようにできている。ルールのない実戦の世界では型しか稽古しない人と自由組手しか稽古しない人と最初に試合をやれば、自由組手しか稽古しない人が初めは勝つ。しかし、2年後、3年後に試合をやれば良く体が練られて、筋骨が鍛えられている型しか稽古しない人が自由組手しか稽古しない人に実戦では勝つ事が証明されている。日本古来の剣術は武士の刀として合戦で使うことを前提とした武道ですが、唐手術は生涯使わないことを前提とした個々人の身に危険がある場合にのみ護衛として認められている護身術の拳法である。沖縄拳法唐手は嵩山少林寺拳法伝来の仏門の戒を守る思想を受け継いでおり、船越義珍は糸洲安恒師範及び安里安恒師範との約束事であることが頑なに反対した理由に影響している。唐手術は狭義の意味では武士の武術ではないために武道ではなく、広義の意味では格闘技としての性質があるために武道として定義付けることができる。空手道の真の姿は仏門の拳法であり、狭義の意味では武道と拳法は性質も目的も全く別の役割を持った同質の武術である。そのため、暴力の乱用は許されないというのが沖縄拳法唐手の古来の精神です。

B(日本武道として空手道が誕生)
 船越義珍は空手道の指導書を琉球拳法唐手(1922年)、錬膽護身 唐手術(1925年)、空手道一路(1933年)、空手道教範(1935年)、空手道の真髄(1939年)及び空手道入門(1943年)の主に六冊を出版しています。この六冊の書物の中で大きな違いは、歴史の説明部分にあります。二冊の琉球拳法唐手及び唐手術には沖縄の発祥からの記載ですが、空手道教範からは中国の歴史まで遡り嵩山少林寺拳法との関係性を強調した記載にしています。東京帝大の学生に剣道のように戦場での戦いを目的とした戦闘術として唐手術を誤解させてしまったため、今後戦闘術に利用されないように改めて唐手術の歴史を沖縄から中国の歴史に遡り本来の唐手術の理念を整理して護身術を強調しています。これにより真の意味で本土に普及された沖縄唐手術は日本の新たな護身術を目的とした武道として空手道へと生まれ変わっています。慶大唐手研究会(師範・船越義珍)が始めて「唐手」を「空手」に変更し、多くの大学空手部で組手、形及び棍(こん)を中心に精神修養の道としての空手道の稽古を行っている。
 1930年、空手道を研究する人達の連絡融和と緊密を深めるため、船越義珍主催の「大日本空手道研究会」が設立されました。1931年日本は満州を占領、翌年は満州国設立を宣言し、同年犬養毅首相の暗殺が報じられ、世の中は暗雲が垂れ込めている重苦しさを感じる時代が訪れていました。軍部が台頭するにつれて歌舞音曲や文学などのは軟弱と言って排他され、文学や音楽などと比べると空手道は全く見習うべき見事な武道であり、不惜身命の精神で国家のために役に立とうとしていると船越義珍の真逆の方向性で空手道は高く期待され世相に合っていた。空手道は実際に戦場で武器として使えなくても鉄拳制裁や気合など軍事教育の中で軍隊の士気高揚と秩序の維持には適していると思われた。1935年、慶応大学空手部の尽力により中国武術であった唐手術拳法(空手道と改称)が、嘉納治五郎の推薦によって大日本武徳会の柔道の関係部門として入会することを承認されている。大日本武徳会は1895年(明治28年)、当初は天皇の行幸に合わせて天皇が観覧する演武の開催を目的に設立された(出典:日本の武道空手道、講談社)。その後、各省庁の政府所管の武道団体へと発展し、当時の大日本武徳会はすべての武道を統括する役割を持っていた。大日本武徳会で空手道が武道として認められたことは、武道界に空手道が正式に仲間入りした事を公に表明したことを意味している。1936年、大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を設立して、武道のスポーツ化に力を入れる嘉納治五郎の夢であった東京オリンピック招致は、IOC(国際オリンピック委員会)総会で1940年の東京オリンピック(後に戦争により返上)招致に成功した。教育者として世界の人々と心を通わせる場を提供する事で、自他共栄の世界平和に貢献しようとした柔道の嘉納治五郎と同じ教育者である船越義珍が空手道による実現しようとしている平和(戦わない正義)の考え方は似て異なる道だった。昔から剣道や柔道のような真の日本の伝統武道には戦場を意識した試合は行われてきているが、それは個人の優劣を競う優勝を争うためのものではない。スポーツ競技と武道は相容れない関係であると武道の競技化に反対する大日本武徳会同様に、船越義珍は中国武術から派生した唐手術を新しいスポーツにするなどという考えは全くなかった。船越義珍は嘉納治五郎とは別の道を進んでいる。

C(松濤館道場誕生と焼失)
 1936年青年将校らに反乱が起きた(二・二六事件)。これにより軍部の支配が強まっていった。1937年、虜溝橋事件が起き日華事変へ発展した。本格的な戦争の始まりだった。1938年、国家総動員法が発令され、国の物資や国民の全てが戦争のために動員されるという法律が施行された。1939年、アドルフ・ヒトラーが率いるドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。同年、船越義珍の松濤館道場が、慶大、一高(帝大を除く東大)、商大(一橋大)、日医大、早大の関係者が集まり、純粋に空手道を愛する学生たちによって東京都文京区雑司ヶ谷に建設されている。それに伴い「大日本空手道研究会」は「大日本空手道松濤館(略称:松濤館)」と改称し、船越義珍を会長とする大日本空手道松濤館が発足した(引用:空手道真髄)。昔の大日本空手道松濤館は1948年日本空手協会が設立される前に近代空手の父、船越義珍を師範と名乗る全国の門下生は例外なく全て松濤館門人として活動を行っていた。そのため、この道場名を船越門下生たちは後に松濤館流と呼ぶようになった。同年、大日本武徳会は船越義珍と船越義豪の両名に対して、空手道普及の功労者として「錬士」の称号を授与する。松濤館会員によって設立された松濤館道場は柔道の講道館などと並び本土初めての空手道場として空手道の聖地となったと言われていた。1939年以降、船越義珍が懸念していた松濤館も日本のために戦争協力が必要になり、やむ負えず学生空手部の立役者である江上茂(早大)は陸軍中野学校の武道教官に就任させ、武道教官として空手道を指導してもらうことになった。しかし、江上茂は1943年、民間の困窮、軍部内部の腐敗の現状に絶望し、どうしても陸軍省中野学校教官を辞めたいと辞職した。この当時の空手部の学生の環境は空手道の稽古どころではなく、全ての学生が戦争に動員される厳しい時代に突入していました。江上茂は大学の後輩たちに空手道を指導して、戦場に赴かせることは耐え難い事だったのではないだろうか。同年(1943年)、第二次世界大戦末期、兵力不足を補うために東條英樹内閣は「在学徴集延期臨時特例」を公布して、26歳までの大学生に認められていた徴兵猶予を文科系大学生に対しては廃止して、20歳以上の学生を入隊・出兵しなければならなくなった(出兵者は約10万人)。彼らの多くは実質的には特攻隊が任務であり、一度戦地に赴けば死を覚悟しなければならない。廣西元信は早大卒業の年の1936年に陸軍に入隊してから1940年に除隊するまで軍隊に所属していました。1935年に出版した空手道教範(著者 船越義珍)によると「東京に於いては慶大、早大、商大(現:一橋大)、拓大、日本医大、中大、一高、帝大(現:東大)などを始め、各大学では争って空手部を設立」と記載されており、中大空手部は1934年に大塚博紀を師範に迎えて、東京帝大空手部と同様に自由組手の稽古と試合化実現に向けた中央大学空手部が既に発足していました。この頃は戦時中、学生たちはただ空手道で誰よりも強くなりたいと考えているだけかもしれない。しかし、その想いは私(船越義珍)では叶えてあげられない。軍部はそれでは全く意味がないし、それでいいと認めることもできないだろう。いずれは空手道を多くの一般学生たちに対しても兵士の訓練用の武術として利用し、やがて多くの血気盛んな空手道を学んだ学生たちには特別に抜擢されて優秀な軍人として日本のために戦場の最前線で活躍させなければならない時が来るだろう。私が皆にできることは空手道の本来の目的を訴えて、空手道の稽古方法を制限して軍部に抵抗することぐらいしかできない。私達の空手道は闘争の武道ではない。戦わないための武道である。それを皆に理解させなければならない。船越義珍を会長とする松濤館に所属する全ての大学空手部は統一的に軍部への協力を目的とした戦場の実戦組手の取り組みを止めて、反戦の空手理念を掲げて形のみとする人格完成を目的とした沖縄空手の普及に取り組み始めました。
 1938年国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる国家総動員法が発令され、太平洋戦争に向けて政府、企業、大学、神社・仏閣、総て戦争に向けた協力体制に入った年、政府の武道審議会設置が帝国議会で承認され、翌1939年厚生大臣の諮問機関「武道振興委員会」が設置された。1940年、大塚博紀は松濤館と肩を並べた新たな和道流を立ち上げることになり、継続的に松濤館に所属することを決定した中大空手部は中大空手会(師範:大塚博紀)を一度解散して、同年に中大空手道会(師範:船越義豪)を新たに発足させました。船越義珍の空手理念に従い、大塚博紀から船越義豪に師範を交代して直原聰夫が会長とした新たな中大空手部に生まれ変わりました。また、国家総動員法に基づく戦争を目的とした武道の役割に従わない船越義珍の武道の理念を重く受け止め、時勢や政治権力に左右されることのない平和な時代を願い、人を殺すための実戦組手の稽古は行わない方針に従った。1942年厚生省体力局武道課が新設された。太平洋戦争が開戦し、厚生大臣諮問機関の「国民体力審議会」は、新設する武道団体は政府の外郭団体として厚生省、文部省、陸軍省、海軍省、内務省の5省共管によるものとし、既存の旧大日本武徳会を活用して政府直轄の新たな武道団体を設立するように提言を出した。1942年、旧大日本武徳会は京都を中心とした日本の伝統武道の継承の役割を目的とした初代総裁小松宮彰仁親王(皇族、陸軍大将)、会長渡辺千秋(京都府知事)、副会長壬生基修(平安神宮宮司)の皇族を中心とした体制から政府の答申に基づき、終戦まで軍部中心の体制に強制的に変更させられて陸軍軍人の東條英樹(内閣総理大臣)を会長とする政府外郭団体の大日本武徳会が旧大日本武徳会から組織改編されて全く別の目的を持った団体として新たに発足した。旧大日本武徳会は1895年に設立された歴史ある団体であったが、日本の大海に沈みゆく戦艦大和同様に、敗戦に向かって進む日本の運命と共に戦争の犠牲となり、不幸にも武道界の全責任を負わされて敗戦まで存続した。副会長に厚生大臣(小泉親彦)、文部大臣(橋田邦彦)、陸軍大臣(東條英機(会長兼任))、海軍大臣(嶋田繁太郎)、内務大臣(湯沢三千男)の各省大臣が就任し、大日本武徳会理事長には民間人、日本全国の支部長には各都道府県知事が任命され、大日本武徳会本部は京都の武徳殿から日本政府内(厚生省)に事務局を移転した。この頃(1941年)、太平洋戦争開戦直後に大日本帝国海軍は戦艦大和を就役させ、1942年に司令長官山本五十六大将が戦艦大和の連合艦隊旗艦となった時代である。大日本武徳会は体育・スポーツ関係団体の中では大日本武徳会の会員数は約224万人と言われており、他に類を見ない膨大な会員数を擁して戦前の武道界の総本山に君臨した。武徳会の段位取得者数は約20万人に達し、剣道が約11万人、柔道が約5万人、弓道が約3万5千人、銃剣術が約9百人、その他の武道団体となっていた(1941年時点)。
 1942年、大日本空手道松濤館は船越義珍を会長として、若き27歳の早大空手部OBの廣西元信はこれから最も批判に晒される厳しい時代の松濤館の筆頭理事に新たに就任し、船越義珍を支えて松濤館の舵取り及び政府との交渉事は任された。多くの武道団体及び空手団体が大日本武徳会に加盟する中、当時船越義珍を師範とする関東名門大学等が所属する日本全国の会員数約2千人を超える松濤館は旧大日本武徳会の頃は武道の理念に賛同して柔道の関係部門として加盟したが、政府外郭団体の軍部政府中心とした大日本武徳会へ組織改編をした団体への参加は松濤館して加盟を拒否した。1981年廣西元信が発行した「岩淵辰雄追想録」によると、廣西元信はこれからの松濤館が進むべき道を求めて吉田茂元首相を支え、戦時中に戦争責任を軍部に求めていた岩淵辰雄(政治評論家)の門下生になり、岩淵辰雄の政治理念に大日本空手道松濤館の運命を託した。岩淵辰雄は太平洋戦争末期の1945年、近衛文麿や吉田茂を中心とした「ヨハンセングループ(吉田反戦グループ)」による早期終戦の和平工作に参加したため、同年4月に吉田茂・殖田俊吉とともに憲兵隊に逮捕された。廣西元信は岩淵辰雄の門下生になってからは反戦及び反共の精神を生涯貫くことになる。当時空手界最大派閥であった松濤館流が陸軍省武道教官及び帝大師範の辞任など軍国主義に非協力的な態度に一部の軍部関係から反発があり、船越義珍を中心とした松濤館を日本精神振興の好戦的武道の一つとして活躍させることから中止となる。仲宗根源和は沖縄県民の地位の向上と民主主義を取り戻そうとした政治家(共産党)であったが、戦前に船越義珍の空手理念を高く評価し、「空手研究(1934年)」、「空手道大観(1938年)」などに船越義珍を取り上げ、検挙及び投獄などされながら当時の軍部とは別の目的で沖縄文化及び民族の地位向上に努めていた。船越義珍の空手は中国(唐)共産主義思想に思われ、空手道の時代の寵児に取り立てる事もなくなり、そのことによって空手道は軍国主義の走狗となることから外される結果となった。1943年3月、厚生省から「戦時学徒体育要綱」が発令され、空手道の稽古は柔道の稽古の一部として行わなければ認められないという条件が付された。これにより空手道は当初柔道部門に所属していたが、その後柔道から独立した単一の武道であり、柔道と空手道は全く歴史も文化も異なる武道である事を主張する松濤館は活動停止となる。松濤館に所属する慶大、早大、商大(現:一橋大)、拓大、中大等の大学空手部は、戦後まで各大学を中心とした稽古に移行し、大日本空手道松濤館という全国組織の存在をあいまいにして松濤館道場も稽古場の一つとしてそれぞれ独立した稽古体制に変更した。反戦思想を持つ松濤館及び船越義珍は非国民と同等の扱いとなり、手のひらを返したように空手他団体からは「自由組手ができないので、自由組手を反対しているのではないか」と馬鹿にされ、軍部関係者からは「全く期待外れの役立たずの人間だった」と罵られて戦後まで言われ続けられる事になった。多くの学徒兵は祖国を守るために死を覚悟で世界の戦線に出動し、神風特別特攻隊など片道の燃料で相手の戦艦に激突する任務など、若き青年たちの命と未来は大地の土となり、海の藻屑となって散った時代だった。その中には多くの船越門下生の大学空手部の学生たちが、学徒兵として出陣し命を落とした。その時代の中で船越義珍は空手界の行く末を握る大きな役割を担う一人として、彼らの死と向かい合いながら、空手とは、国家とは、戦争とは、生と死とは、人間とは何かという根本的な問題について、もっとも多くの社会の不条理に疑問を抱き、心を痛めて悩み抜いた末にたどり着いた行動だったと考えられる。船越義珍の門下生の中には船越義豪、大塚博紀、中山正敏、大山倍達など多くの実戦組手及び試合組手の才能を持つ師範を多く抱えていたが、敢えてその師範に活躍の場を与えなかったのは子供の無事を待ち望む学徒兵の親たちの心情を考えれば、子供たちの親代わりである船越義珍にとってその命題の前には空手道の技や強さで他人の命を一人でも多く奪う心など無意味であり、あまりに船越義珍が考える空手道の稽古の目的と異なると思えたに違いない。そのため、大塚博紀、大山倍達など闘争の組手を目指す多くの空手家たちは、空手家としての真の強さを求めて船越義珍から離れていった。仏教で空手道を例えるならば人間社会から離れて、山に一人で籠り、滝に打たれながら修行する個人の最高の悟りだけを求める小乗仏教(稽古)と人々と共に泣き笑いながら全人類を救うことを目的とする大乗仏教(稽古)があるが、多くの空手家は小乗の稽古を求めたがるが、たった一人船越義珍は大乗の空手を目指した空手家である。そのために多くの空手家から根本的な考え方の違いにより誤解と批判も受けたが、晩年は誰よりも多くの人々から賞賛を得られている。船越義珍の墓所は逝去後に沖縄県に埋葬されたが、本土の貢献が大きい船越義珍の御心を配慮して、その後遺骨は船越家のたっての願いで本土(日蓮宗善正寺)の神奈川県に移されて再埋葬されている。彼の生き方は法華経の精神で東北の冷害から貧困に苦しむ農民を助け出そうとした宮澤賢治(童話作家)に通ずる立派な生涯だったと言える。
 松濤館は例え外国人でも差別なく空手道を指導し、1943年韓国人である大山倍達(極真会館館長)入門、テコンドー初代館長 李元国(イ・ウォングク)は、中央大学在学中に空手道(松濤館)を学んでいる。李元国はリング外での戦いは行わないとベトナム戦争の徴兵を拒否したモハメド・アリ同様、朝鮮戦争勃発時に軍の召集を拒み日本へ密航している。その後、韓国の空手道はテコンドーに形を変え、今やオリンピック種目として活躍している。空手道は日本の剣術のように戦国時代の武士の武術として発展してきた真の武道と異なり、殺生を禁じて無法者から嵩山少林寺への襲撃に対して中国嵩山少林寺の達磨大師及び仏門の弟子たちを守るために編制した僧兵の拳法として発展してきた武道である(空手道教範 船越義珍より)。空手道は格闘技であるために戦場での争いを好むと誤解されるが、むしろ戦場での争いを好まない文化人の教養を持つ人物が多い、船越義珍も同様の理念だったことだろう。1945年、第二次世界大戦の戦局は激しさを増し、東京大空襲で松濤館道場は焼失。松濤館の本部道場を失った門人達は、多くの人々が戦場で命を落とす中、大学空手部の学生に思いは託されて松濤館の稽古は続けられることになる。太平洋戦争末期、沖縄戦によって県民の四人に一人の命が犠牲になる悲劇を経験し、広島及び長崎に原爆が投下されて数十万人の命が奪われた。日本が絶望的な決意とともに開始した太平洋戦争では兵士の動員数は延べ1千万人、死者及び行方不明者は2百万人、民衆の死亡者は百万人となり、日本は破滅の戦いと呼ぶにふさわしいほど、凄惨な姿で日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏と言う敗戦を迎えることになる。太平洋戦争中、大塚博紀は空手道の稽古は人格形成を優先して乱れた世を直すことが先であり、暴力で物事を解決する事に加勢した自由組手(実戦組手)など今は教えるべきではないと主張した船越義珍と仲違いしたが、戦後では船越義珍の人柄について「船越さんという人は子供のような心の持主で、(一人の人をどこまでも大切し)、実に正直な人でした(しかし、これが義珍先生の短所の反面、長所でもある)」と評価した。船越義珍の理想の空手は人道主義の武道であり、空手道の世界は国境もなければ差別など存在しない。武力による解決ではなく相手を傷つけずに非暴力でインドの独立を勝ち取ったマハトマ・ガンジー、黒人と白人を差別せずにいつか同じテーブルに就くことの大切さを教えたマーチン・ルーサー・キング牧師の二人の偉人のように空手道を通して沖縄人が受けて来た差別と偏見をなくし、国籍や肌の色など関係ない、世界中の人々が皆幸せで平和な世の中を作ることこそ一番空手道で果たすべき使命と考えていた。道徳・倫理よりも勝負の強さが最も優先される近代空手道の競技の世界では船越義珍の空手理念は空手家からは評価に値しない、面白みのない理念と思われたかもしれない。しかし、船越義珍の理想は今も武道の世界の枠を超えて、全人類が望む未来のために世界中の人々から愛されて深い輝きを放っている。

D(武道禁止と再開)
 第二次世界大戦後、多くの子供たちが戦争によって親を亡くし、貧困と生活苦により希望と笑顔を失っていた。1945年、敗戦によって満州・朝鮮・台湾の領土を喪失し、日本は穀物の供給源を失い、戦争からの引揚者で日本の人口は増大した。法を犯して配給食糧以外の闇米を食べなければ生きられない時代、国民の多くが食糧不足に苦しみ一家心中をするものも相次いだ。そんな時代に東京裁判所判事である山口良忠が食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当し、法制度の番人である自分が法を犯してはいけないと配給食糧以外の食糧は口にせず、自分の配給食糧の一部も自分の家族に与えて栄養失調で餓死した事件が起きた。連合国(GHQ)によって東京市ヶ谷に設置された極東国際軍事法廷により、東條英機元内閣総理大臣を始めとする日本の指導者を侵略戦争を起こした罪の容疑で裁いた東京裁判が行われた。国民の戦争に対する怒りは戦争責任へと高まっていき、その矛先の一つに武道の持つ武士道の思想が戦争に対する高揚を高め、多くの国民を無差別に戦争への方向へ駆り立てたということになった。敗戦国である日本はマッカーサーを最高司令官とするGHQの占領下に置かれ、「武道は戦争を助長した」として学校や道場等で武士道精神を主軸とする伝統武道を教えることを禁じられている。政府の方針に従った大日本武徳会は解散させられ、柔道、剣道と共に総司令部の方針で終戦以来しばらく公の場では松濤館の空手道の稽古も一時禁止された。但し、戦後GHQによって軍部中心とした大日本武徳会は設立から僅か3年で柔道、剣道等の全ての責任を負わされて解散したが、大日本武徳会自体の問題ではなく当時の日本の軍部政府に問題があった事が明らかになり、旧大日本武徳会は設立当初の武道理念を取り戻し、1952年の武道禁止令解除以降、1954年平和武道として皇族関係者と民間人を中心とした大日本武徳会として活動を再開されることとなる。戦後、GHQを中心とした政府は伝統武道を禁止して、天皇陛下を中心とした滅私奉公の武士道精神ではない、民主主義と平和主義を根付かせた新しい日本を作り始めている。
 当時の空手界は、中国の文化大革命同様に空手道の存続に関わる大きな問題となっていた。空手道は組織として表立っては稽古ができなかったため、隠れて稽古を継続するか。ボクシングと偽って稽古を継続する以外空手道の稽古はできなかった。空手関係者は、戦後のすべてを失った時だからこそ、芸術(音楽、絵画など)のように世界に誇る日本の伝統武道は、多くの人々の笑顔を取り戻し、生きる心の支えになるはずであると考えている。敗戦で失われた日本人の誇りを取り戻そうとするかのように岩淵辰雄の政治理念によって助けられた松濤館は、松濤館筆頭理事の廣西元信が戦時中の政府交渉の経験を活かして、早大教授の大浜信泉(早大空手部部長)の代理人として、早大空手部復活交渉を鎌田俊夫と共に直接に文部省(現在:文部科学省)から出された通達(柔道、剣道等の武道を禁止)に対して、空手道の早期稽古再開を大学及び文部省に求めた。空手道は柔道部門に所属していたが、その後柔道から独立した武道である。また、太平洋戦争のために1943年大日本武徳会が財団法人に改組の際には、船越義珍を中心とした松濤館は大日本武徳会に加盟を行わなかった経緯を説明した。その結果、早大空手部で稽古を再開しようとしている空手道は剣道や柔道のような武道と異なり、武士道精神に基づかない世界の人々とのスポーツ交流のみを目的としたボクシングやフェンシングと同じ平和スポーツとして新たに稽古を再開するならば武道禁止令には抵触しないということが文部省から大浜信泉に告げられた。空手道が柔道及び剣道よりも先駆けて稽古が許可された理由は、船越義珍を中心した松濤館は大日本武徳会に未加盟であったことと、反戦思想により軍部から嫌われていたことが逆にGHQの印象を良くさせる結果となった。そのため、戦後は船越義珍は米国司令官から空手演武を依頼されるなど他の空手師範とは別格の特別な待遇を受けた。また、当時の政治情勢は1945年2月吉田茂は東条英樹による軍部政治の時代は反戦思想により憲兵隊に投獄されていたが、1945年10月外交官の経験を持つ吉田茂は幣原内閣の外務大臣に就任し、翌年には1946年5月に内閣総理大臣に就任するなど、反戦思想及び平和思想により戦時中に軍部に苦しめられた人々は日の目を見る時代に時代は大きく変化していた。そのため、空手道は柔道及び剣道よりも先に戦後の平和の時代が味方となり、1946年に大学スポーツに所属する早大空手部は武道界では異例の速さでスポーツを目的として新たに稽古再開を認められた。空手道は早大空手部(松濤館流)の早期稽古再開を皮切りに、全国の他流派の空手団体も同様に稽古再開が早期に許可された。

E(空手道の存続の取組み)
 1946年早大空手部は「空手道はスポーツではなく、武道である」という信念を曲げる事はなかったが、歴史の中で空手道が姿を消す事はあってはならない。やむを得ず稽古再開のため一時の権道(方便)のスポーツとして再開し、いつの日か再び武道として稽古ができる機会を待つことになった。この空手道の早期稽古再開が空手道は「武道」、それとも「スポーツ」のどちらなのか、戦後の稽古生たちに命題を残し、半世紀以上をたった今でもその結論は出ていない。そして、この空手道の競技導入によって稽古体系と空手道の技が大きく変わり、それが基でフルコンタクト(直接打撃制)団体とノンコンタクト(寸止め制)団体との間が真っ二つに分かれ、空手界の動乱の歴史の一歩を踏み出す事になる。1948年には全ての船越門下生を中心に公式な空手団体の稽古再開に向けて、国際平和を希求する国民スポーツとして流派を超越した真正空手道の確立を目的に、最高師範 船越義珍、幕末期及び明治維新の指導者であった薩摩藩の西郷隆盛の孫にあたる西郷吉之助(政治家(自民党))が会長に就任し、副会長 小幡功(慶大)、理事長 高木正朝(拓大)、理事 中山正敏(拓大)、理事 野口宏(早大)、理事 加瀬泰冶(専大)、理事 高木丈太郎(中大)、その他を含めた協力者の船越義英(義珍の長男)、廣西元信(早大)、江上茂(早大)、早大、法大、中大、専大、拓大、一橋大、慶大及び昭和医大等により、船越義珍が会長を務めた大日本空手道松濤館に代わる空手界最大勢力(当時)の日本空手協会が空手道の存続のため新たに誕生した。本団体設立に当たっては船越門下生が、空手道の再開のために派閥を超えてまとまることができた歴史的な出来事となっている。しかし、船越義珍は空手道の早期再開が実現でき、武士道の伝統に由来する武道として軍部から戦争に利用される懸念がなくなったことは安堵の思いだったが、新たに社会の平和と繁栄に基づくこれからの空手道のあり方と国民体育教育として発展させるための大きな3つの悩みを抱えていた。
 一つ目は、安里、糸洲両師範から継承した空手道の本質を壊すことなく、正しい空手道の理念を後世に残さなければならいという大義があった。船越義珍は、「自他共に相倚り相扶けて、最高の信仰として精進修行し、そして人間完成の道に邁進してこそ真の空手道の悟りが開かれる」(空手道一路)という理想の空手理念を持っており、当時のスポーツは道徳及び理念など持たない娯楽として捉えられていた。船越義珍は空手道が喧嘩に勝つための実戦組手に利用されることと、空手の武術が遊技として競技化されることについては空手道を冒瀆(ぼうとく)していると言われるまで反対姿勢であり、そのような事に利用された場合は除名を言い渡されることもあった。そのため、競技推進派と競技反対派で立場が分かれた。
 二つ目は、空手道は単なる娯楽スポーツではなく、君子の拳として人の役に立つ道を目指す平和を目的とした武道であるという高い武道の理念を失う可能性も持っていた。武道の剣術は日本の武士の剣、拳法(唐手)は中国の官吏の国術として発展した紳士の武術であり、空手道は単なる武術だけでなくこの二つを兼ね備えた高い道徳性と品格を持つ優れた人材の育成にこそ目的があった。
 三つ目はスポーツである以上、競技試合は必須要件だった。競技実施にあたっては、各武道競技(柔道、合気道、剣道など)とのそれぞれの違いが明確にされていることが求められた。当時の空手道は柔道のような投げ技、合気道のような掴み技、剣道のように武器(棍、剣、釵(さい)など)を使った総合格闘技であった。そのため、空手道は武器、掴み技及び投げ技を捨てて突き、蹴り及び受け技、柔道は投げ技、剣道は剣のみを使用した競技化で調整されていた。空手道の競技化はキックボクシングのように突き・蹴りを中心とした全く別の格闘技として生まれ変わろうとしていたため技の本質を壊すこととなり、正しい空手道の理念と技が後世に継承できない懸念があった。
 この主な三つの理由から空手道の試合制度導入については、空手道の普及のために競技を急ぐ推進派と船越義珍師範の懸念が改善されてからでも遅くないとする反対派で意見が分かれた。松濤館空手の先導的立場であり、松濤館空手を背負って立つと思われた船越義豪(文部省技官)が終戦の年に病死し、この実現の課題の矢面に立たされた競技推進派の中山正敏(当時拓大講師)は、船越義珍が懸念する空手道の競技化によって、本来の武道の技とは別物になる危険は良く理解していた。しかし、やむなく空手界の存続の危機の解決のため、武道空手としての試合制度確立に向けて事業を進めていく事になる。当時の空手道の本質を維持した試合制度の確立については、キックボクシングのような体力勝負ではない、華麗に舞いながらも一瞬で相手を鋭く仕留める決め技(寸止め)と、武道の倫理観(礼儀、振る舞いなど)を重視した試合空手の実現の難しさに多くの課題と問題を抱えていた。結果的に、空手道の更なる発展を目指して関係団体との調整の結果、空手道の武器の使用(棍の稽古廃止)、掛け手及び投げ技の稽古は中止して、突き、蹴り及び受けのルールに縛られたスポーツ空手として新たに歩み始めることになった。この競技推進派の早期決断が組織内の波紋を生み、後に競技試合の反対派は旧大日本空手道松濤館再建を目指すことになる。

F(試合空手の誕生)
 1948年大学空手部も新たに学連再建準備会(於早大)が、慶大、拓大、早大、中大、専大の5校の参加で開催され、日本学生空手道連盟発足・第一回演武大会(京橋公会堂)が慶大、拓大、早大、中大、専大、法大、学習院大、千葉外事専門(現在、麗澤大学)、明大、日大が参加して実施されている。また、1950年10月、松濤館六大学の慶大、拓大、早大、中大、法大及び専大の36名が、剛柔流の同志社、立命館大、関西大等との対戦による技の手合わせを目的とした交換稽古(自由組手)を行った。現在のような競技ルール(寸止め)はまだ確立さていなかったため、身体への直接打撃制によるけが人が多数発生するかなり激しいものであったと言われている。この頃から大学間で積極的に交換稽古が行われていたが、それは「集団の果し合い」ともとれる様相を示していた。学生たちの血気盛んな力は、学生運動の高まりと共に多くの乱闘事件を起こすなど学生空手部は荒れていた。空手道先駆者たちは、伝統武道の禁止令が全面解除になった1952年からも学生たちが空手を稽古するに当って、「強くなり、(競技)組手で試したい」という明確な熱い思いを持っているのに対し、指導理念として学生たちに冷静な視点から空手のより高次の「空手の目的は何か」という命題と空手が単なる勝負に勝つことを目的としたスポーツではなく、人生をより良く生きることを探求する伝統武道の精神を引き継いでいるという本質的な違いを学生たちに興味を持たせてあげることができなかった。戦後、空手道が伝統武道から国民体育教育のスポーツに国としての位置付けが変わると、大学生たちは幼少期から陸上、ボクシングなどのスポーツは競技試合を通じて練習意欲を高めて技術力を向上させ、その努力の結果で優勝できる事の尊さと楽しさを教えられている。そして、人は努力すれば何でもできる可能性を誰もが秘めている事を学び、大学受験や人生の難しい課題に立ち向かう事への応用ができる事も経験している。学生たちには目に見える結果が見えない、ただひたすら厳しい稽古を精神修行のために行う稽古方法には納得できない学生が多く現れるようになった。学生たちが、「なぜ空手道には競技がないのか」という疑問を持つことは、時代の流れの中で空手道の本質が武道とスポーツは同じであるという常識に変わってしまった以上やむを得ないことであった。そのため、試合化に向けて希望を見出す学生とは対照的に、空手道が人格完成を目指す武道から競技を目的とした武道へと変わっていくと、己の大学の名誉を守る事が最大の関心事項となり、指導者が試合を目的としない技と道義精神を指導しても学生たちにとって馬の耳に念仏であった。
 大学空手部で試合に強くなり、その証を残すことに越したことはないが、人生は大学で終わりではない。その後、稽古を続けるにしても辞めるにしても、腕力の強さだけで人生の課題にすべて立ち向かえるわけでも、誰かを守れるわけでもない。大学時代は社会で活躍できる十分な力を学業と武道の稽古の中で礼儀や人格を磨くことにより、しっかりした自分自身を作り上げて社会で貢献できる青年に成長してこそ、これからの自分の人生をより良いものとすることができる。社会経験の少ない学生たちには、今は理解できないかもしれない。しかし、学生の将来を見据えた教育こそが真の空手指導者のあるべき姿ではないだろうか。日本人の心はもっと奥ゆかしい美しい生き方なんだ。本当に人間を鍛え、心を高めるためには学問も必要である。学生空手部の本分は修文練武で将来立派な社会人になるための場に過ぎない。また、武道の力も和合の精神を心得てこそ、多くの人に支えられ自分の大切な人も守れる。ただ単に強さだけではない、五常(仁義礼智信)を重んじる生き方の追求や多くの人に生きる力を与えることができる立派な武道家の育成は、これからの空手界に必要である。目先の事や小手先の技にとらわれた武道ではなく、初めは強くなりたい一心で空手道を学び、天下泰平を願うことができる心豊かな若者を育成してこそ、戦後の空手道を存続させる意義がある。私たち武道者はたとえ道着を脱いだとしても苦難の雨あられの中、それぞれの社会の役割で大地に丈夫な根を張り、多くの人を守りながら武道の精神を大切にして生きて見せることこそが私たちの稽古の目的である。しかし、今の空手界はあまりに空手道の名誉と試合制度の確立に執着し過ぎている。大会試合の優勝も試合ルールの中だけの一つの評価軸の強さであり、その結果を持って一流の武道家であるという証明にはならない。試合制度の中の活躍は、どこまで行っても稽古のための稽古の場に過ぎない。西欧のサッカー、ラグビーのような真のスポーツは、ボールを奪い合って相手陣のインゴールまで運び得点を競うこと以外の目的はないため、競技の勝者は誰もが納得する平等なルールの下で公平な評価を行うことができる。しかし、空手道は少し違う。元々スポーツと異なる空手道は実際に自身の身の危険に際して、相手がどんな技を繰り出しても自分の身を守る事が求められている。そのため、相手を倒す技の評価が人それぞれであり、実際に技が効いているのかということまでは想像力を働かせた状況判断が優先され、実際に試して見なければ分からないという課題を持っている。そのような状況下では試合に向かない価値ある技は淘汰され、誰もが納得する真に求める強さ・技・心の達成を目的とするための公平な評価は難しいのではないだろうか。先人が継承したかった人生の大事を果たすための空手道の義の道として、真に私たちは空手道の後継者として正しい道を歩んでいるのだろうか。更に空手道の真の目的は技だけでなく、日々の鍛え上げた力で自他の悩みや苦しみに打ち勝ち、実生活に活かしてこそ本来の空手道の稽古の目的でもある。これから進もうとしている空手道は、稽古意欲を高める手段であるはずの競技試合が目的化している。本来の空手道の目的を忘れて、試合制度において自己満足的に自分の栄光を夢見ることだけがこれからの空手界の真の目的ならば、船越師範が目指している武道のあり方とは少し違っている。このままでは武道界は格闘技の師だけではない、人生の師に成り得る真の武道家は今後現れる事はないだろう。どうすれば私たちが理想とする武道家を育成することができるのだろうか。多くの空手道先覚者である船越義珍及びその他の師範たちは、武道のスポーツ化によって伝統武道の終焉に悲観されていた。

G(師弟の絆)
 武道禁止令が全面解除になった1952年、柔道及び剣道などの武道の稽古が再開し、誰もが自由に武道の稽古をすることが可能になると、松濤館空手の礎を築いた三人の指導者たちが大学空手部において競技スポーツではない武道空手の指導にあたる。江上茂は早大空手部監督(1953年)に就任(その他、学習院大)。江上茂と共に船越義珍の技をより発展させた柳澤基弘は中大(1953年)、東京農工大(1953年)、一橋大(1956年)、成城大(1959年)の監督に就任した。松濤館空手の中では船越義珍の型の動きに最も近い技の継承を頑固までに貫いた専修大の指導に廣西元信が就任している。1950年代後半、エリザベス女王陛下から武術家の叙勲を授与された早大空手部OBの原田満典(イギリス)、村上哲司(フランス、イタリア、ポルトガル)、昼間厚夫(スペイン)などの松濤館の指導者は、武道空手の海外普及のために積極的に海外に渡った。空手道の魂は競技のように外に価値を求めず、武道家自身の内側の確固たる鍛錬にこそ何物も恐れない不屈な魂と技が養われるはずである。そして、最後に空手道を超えた人間としての生き方に影響を与えてこそ、私たち空手家が目指すべき本当の価値がある。武道を娯楽スポーツや自己満足的なものにしてもいいのだろうか。戦争は空手道場や多くの大切な人たちの命を奪い、さらに日本人の誇りと共に日本の伝統武道の魂でさえ奪い去ろうとしている。東京大空襲による旧大日本空手道松濤館の焼失、空手道の稽古を続けたくても、戦争によって続けることができなかった有志の残心の想いを忘れてはいけない。これからの日本のために武技・武術として、日本の文化である武道を守り抜くことはこれからの日本にとって大きな希望になるだろう。たとえ一人になっても、自分の信ずる道を進もう。武道空手への高い理想を持つ、競技反対派の空手家たちは時代の流れに逆行してでも、信念に生きる最後の武道家として生きる覚悟を決めていた。
 1955年早大、野口宏(早大)、中大、1956年小幡功(慶大)及び高木丈太郎(中大)、1957年久保田正一(一橋大学)及び専修大は、空手道の存続と稽古の条件であった試合制度の確立に縛られる必要性はなくなり、恩師(船越義珍)が思い描いていた正しい空手道の精神を守り続けることが、武道家として優先されるべき師恩の道であるという師弟の生き方に生涯を懸ける決意で協会を去る選択を行った。スポーツは欧米文化で形成された競技であるが、私たちの武道はボクシングのように戦いを好み、誰かを楽しませるために見世物として競技化した日本文化ではない。勇敢な者たちが、愛する者たちのために争いの世を終わらせようと命がけで生きてきた大和魂が刻まれた日本の武道文化である。空手道は合理的に技術を学ぶためだけの武道ではなく、理屈を超えた体感の武道として恩義・信義の道により先人から受け継がれたものである。空手道を正しく後進に伝えることが伝統武道を受け継いだ者の使命と責任であり、空手道は人格の陶治を図ることが最も大切である。競技化・興行化のために、空手道を発展させることは武道の本意と異なり、武道の美徳ではないとする武道倫理観からであった。武道禁止令で空手道を再開させるために設立された日本空手協会の当初の役目を終えて、船越義珍から直接の指導を受けた大学空手部(慶大、拓大、早大、商大(一橋大)、中大、法大及び専大)の若武者たちは、空手界の次世代を見据えて将の中の将として、日本空手協会で競技武道を追求する者、日本空手道松濤會の活動を再開して競技を行わない武道として船越師範の切なる願いの実現を生涯守り続けようとする者、組織にとらわれない全ての流派を統合する空手団体(全日本空手道連盟)の設立に情熱を傾ける者とそれぞれ別々の道を歩み始めた。その後、1958年中山正敏(拓大)は空手協会の初代首席師範に就任し、1962年廣西元信(早大)は松濤會代二代理事長に就任、また小幡功(慶大)は空手界の次の時代を見据えて、1964年全日本空手道連盟の初代理事長に就任し、会長には大浜信泉(早大空手部部長)が就任するなど、それぞれ別の道を歩みながら空手界のトップリーダーとして船越義珍の蒔いた種は弟子たちによって空手道の発展に大きな貢献し、空手道が世界へと広がっていくことになる。

H(松濤館の稽古再開)
 1955年以降、空手チョップの技を持つ元大相撲出身の力道山(プロレスラー)が、外国人レスラーを次々に倒して国民に勇気を与えた時代となる。元松濤會顧問の戸川幸夫氏によると、戦前、力道山が関取十両だった頃、「面白い手であるから教えてほしい」と松濤會に来られ、本部指導員が力道山に空手道の指導を行い、レスラーになった時に「空手チョップ」を武器にしたと言われています。日本は滅私奉公の精神を失い、個人主義を重視した民主主義と自由主義の欧米主導の新たな時代の流れを模索する中、若者の間では殴り合いの喧嘩は当たり前の時代を迎え、意見の衝突の解決の手段として喧嘩で方を付ける若者が多くなった。誰もが喧嘩の強さに憧れ、喧嘩に強くなるために空手道を始める学生が多くなり、紳士的な武道ではなく不良少年のための暴力的なものであるという誤ったイメージが多くの人に抱かれ、その空手道の現状を見て船越義珍は頭を悩まされていた。糸洲安恒と共に平和教育及び体育教育として、青少年の健全な育成を目的に本土に広めたはずの空手道がヤクザの喧嘩と変わりがない暴力的集団と誤解される武道へと姿を変えてしまった。そのため、安里安恒、糸洲安恒など多くの先人たちに対して、申し訳ない気持ちで一杯だった。空手道を本土に普及し、青年育成に生かすはずだった空手道がかえって社会の秩序を乱す一原因と見なされてしまった事は義珍にとっては残念でならなかった。
 その義珍の想いを受けて、心ある弟子たちがただ勝負に強いだけではない自分の信ずる道のために義珍の理想の実現に動き出した男たちがいた。私たちには武道禁止令で権道(方便)だったスポーツ空手を本門の真の武道空手に戻さなければならない責任がある。空手道は柔道、剣道のように専門的に発展しているが、その反面、総合的、大局的、調和を忘れている。空手道は青少年育成を掲げているが、実際には競技の成果が最も優先され、人間の教育、人間の存在は二の次になっているのが現状である。強さを誇った力道山と言えども何者かの短刀一突きで命を落としている。いくら競技の中で優勝を目指して稽古しても、刀剣や拳銃に勝てるはずがない。空手道を活かすとしても喧嘩で数人を相手にするぐらいが関の山である。しかし、我々の武道の意義はそんなところにあるのではない。武道は指導者が指導方法を間違えなければ、自分に自信を失くしている弱虫やいじめられっ子、生きる意味を見失った無気力な人にも生きる希望を持たせ、社会で立派に活躍させる力がある。そういう将来を期待されていなかった子供たちが時代を変え、社会の大きな責任を背負って生きるならば私たちが空手道を教える意味がある。空手道が人のために活かす事ができなくなったならば、空手道も生命を失った骨董品や玩具として遊ぶ愛好家に過ぎない。歴史を振り返れば、刀一本で幕末まで活躍した侍はいない。皆、坂本龍馬や山岡鉄舟のように社会との関わりの中で、自分の生きる意味を見つけるために剣の稽古を懸命に励んでいた。刀は人の道を開かず、人が刀によって道を開く。刀は人の理想を支える道具に過ぎない。空手道の技も血と汗と涙で人生を駆けて稽古しても、社会との関わりや時代を無視していれば全ての努力が無駄になる。空手道の修業は師範の指導を受けて型だけを修得すれば良いと考えている人はただの技術者であり、本当の武道家ではない。空手修行者は道場から離れた自分自身の公私の生活の中にこそ、本当の空手道場がある。そして最も大切な事は人の資質によって全てが決まる。その人の資質によって、多くの人々が感化され、勇気づけられていく。その一つの環境の変化が同心円状に広がり、日本中から更に世界中へと広がっていく。一人の人間が社会に与える影響は僅かです。しかし、もし一人の人間の気づきのようなもので多くの人に影響を与えて社会のために行動する多くの人を育成できるならば、その人たちによって松濤會は競技の優勝者に勝る大きな社会への貢献を果たせたことになる。人の能力は努力次第でどうにでもなるが、人の資質はそう簡単に変えられるものではない。指導者は日本の社会に出ても誰からも信頼される青少年の育成に尽くすべきである。空手道は人間の総合能力として、技の向上だけでなく智育・徳育とあいまって誰もが歩まなければならない人類普遍の真理の道を含めて稽古を行わなければならない。本来の空手道はそれぞれの自分の職場や家庭で自分の信念に基づいて生きる時、それを妨げる障害や非難を浴びることがあるかもしれない。その際の精神的、肉体的な障害を跳ね除けるための護身術を目的としており、ただ単に自分の強さを競技によってひけらかす事でも、喧嘩に強くなる事でもない。弱い自分自身に打ち克つ強い精神と身体を養い、自分自身が強いからと言っても弱い者いじめをせず、むしろ弱者に手を差し伸べる事ができる心の温かい青年を育成することこそ、本当に稽古に大事なことである。そして、それぞれの空手団体は組織は違えども皆同じ想いと良い方向だけを進んで行けばいい、きっと素晴らしい社会が訪れるに違いない。
 1956年、船越義珍は廣西元信(早大)等の空手部関係者が新たに大日本空手道松濤館の稽古を再開するのに伴い、競技を推進する日本空手協会と競技を目的としない日本空手道松濤會との間で中立な立場を取りたいと日本空手協会の最高師範辞任願いの意思を日本空手協会に伝える。船越義珍はどこの団体にも肩を持つつもりはなく、船越門下生として一つに団結していた門弟たちが別々の道に進んでも公平な立場で温かくすべての船越門下生を見守りたいとする親心からであった。これから発足される松濤會は多くの団体の手本となり、少しでも良い影響を与えてくることに期待した。また、当時の沖縄県は第二次世界大戦後、1951年に署名された平和条約(サンフランシスコ講和条約)により、アメリカ統治下の琉球政府(1952年〜1972年)が設立され、沖縄返還まで一時的に日本ではなくなっている。沖縄出身の船越義珍は日本人であると言う意識よりも沖縄人(うちなんちゅ)としての思いが深く、本土と沖縄との架け橋のために空手道を本土に伝えたが、争い事を好む本土の人(やまとんちゅ)には争いを好まない沖縄空手の精神を理解させる事は難しいと考えられ、それ以降空手指導者として空手道場に出向く事はなかったと言われている。また、船越義珍は一人の空手指導者の立場で戦後日本と故郷の沖縄の行く末を案じた。昭和天皇の艦長「沖縄出身提督漢那憲和の生涯」(著者:恵隆之介)によると、戦後の日本はGHQの占領下にあり、飢餓と敗戦のショックで国民は惨めな思いで生活を強いられた。多くの日本人が生きる柱として生きて来た天皇制の崩壊は、天皇人間宣言により多くの日本人に大きな失望感と生きる意味を見失わせてしまった。誰もが生き延びるため必死だった終戦直後の日本では、人々が貧しさにあえぐ一方、国内に進駐する米国軍人たちにチョコレートを恵んでもらうために多くの日本の子供たちが惨めにも「ギブミ―チョコレート」と叫んで米国兵に群がった。沖縄県民には通行の自由もなく、那覇などの旧都市地域への居住も許可されなかった。1946年漢那憲和が中心となって、その現状を打開するためにマッカーサー元帥に沖縄返還嘆願書を陳情した。1916年、昭和天皇(当時皇太子)の欧州外遊の際に御召艦「香取」の大役を担った漢那憲和は既に退役し、その後は沖縄県から衆議院議員に立候補して当選、平沼内閣内務政務次官に任じられるなど政界で華々しい活躍をしていた。その嘆願書の連名者には漢那憲和を含む、伊江朝助(元貴族院)、東恩納寛惇(大学教授)、神山政良(元大蔵省(現在:財務省)官僚)、仲吉良光(政治家)、大濱信泉(早大総長)、伊礼肇(衆議院)、高嶺明達(元商工省(現在:経産省)官僚)、嘉手川重利(元那覇市議会議員)、船越義英(船越義珍の長男)、亀山盛要、太田政作(政治家)の12名の名が連ねられており、沖縄返還嘆願書はGHQに和文・英文で提出された。その12名の名前の中に空手関係者は大濱信泉と船越義珍の長男である船越義英の2名も連ねられている。漢那の政界時代に後援会長を務めた船越義珍は米国司令官から空手演武を依頼され、このような混乱の時期でも惨めな姿は一つも見せずに堂々たる演武を行った。この演武を見た米軍将校たちは沖縄人としての誇り高きプライドと逞しさに度肝を抜いたと言われている。1950年北朝鮮軍が突如韓国に侵入、朝鮮戦争が勃発した。米国は反共のため、沖縄に恒久的軍事施設を宣言し、沖縄の施政権返還は遠のいたが、1972年に念願の沖縄返還が実現することになる。船越義珍の空手は人生を懸けて沖縄から世界平和を実現して見せるという精神が貫かれた空手道理念であり、決して個人の争いに勝つことを目的とした空手道理念ではなかった。船越義珍が勝たなければならない最大の敵は恐怖、臆病という己自身の弱い心であり、人類が抱える差別と偏見という大きな課題解決こそ、空手の道で開きたかった道である。人が人生を懸けて何か事を起こそうとする時、必ず人生の大きな障害にぶつかる事になる。その時に何が大事になるか。それは障害となる人や環境を破壊することではなく、憎しみや恐れなどの己自身に負けない強い精神で闘うことが必ず要求される。そして、その先には決して人と争わず、国境や人種に関係なく和の道を見つけることである。空手は本来、心と体を整えて、活力を養い、優秀な人材を育成して日本に貢献するために発展した武道であり、暴力から命を守る拳でもある。1957年4月船越義珍は琉球で開花した空手道の花が世界中に広がり、多くの人々の絆と文化に実を結び、日本が世界に羽ばたく一助けとなる未来を信じて永眠した(享年90)。

I(松濤會第二代会長 船越義英就任)
 1958年、終戦前から続く大日本空手道松濤館を継承する正式な団体として、松濤會の再結成の趣旨に賛同する空手関係者により、船越義珍の長男である船越義英が父の意思を引き継ぎ、第二代会長に就任して日本空手道松濤會を正式に結成させた。船越義珍の胸中にあった「空手は武道である。単なる戦いの技術ではない。頑丈な身体を作り技術を磨き、一生使わずに済むことが理想である。空手に試合などあり得ない」という近代空手道の早々期の原点に立ち戻ることにあった。船越義英は漢那憲和が政治家時代に陰で支えてきた人物であるが、空手道は沖縄文化の重要な無形文化遺産であることを誰よりも認識していた。そのため、空手道は将来に亘って空手道の心も技も原形のままで保存継承する必要性を説いた。大日本空手道松濤館の設立に携わった当時の早大及び中大空手部関係者にとって、松濤館道場の存在は空手道の聖地である。1959年、早大、法大、学習院大、駒澤大、専修大、中大及び防衛大による関東学生空手道連盟合同稽古(於早大)が開催される。江上茂が早大監督を辞任し、更に船越義珍が逝去後、1960年東京オリンピック(1964年)招致が決定すると、二度目の武道空手の存続の危機を迎える。日本でのオリンピック開催は、敗戦国日本が世界にもはや敗戦国でない日本として国上げての大きな盛り上がりとなった。武道の代表的立場である嘉納治五郎が創設した柔道のスポーツ化は、大隈重信が創立した早大に所属する空手部として、慶大空手部と共に一団体の理念を守る事よりも東京オリンピック開催に向けて空手界又は日本の一翼を担う大きな責任を負う重要な選択を抱えていた。1960年、早大空手部は関東松濤館空手合同稽古(於中大)を最後に、伝統武道を守り続ける早大空手部中心とした松濤會空手は早大空手部自身が競技空手(全日本学生選手大会)の道に活躍の場を移さなければならなくなった。早大空手部としては船越義珍が亡くなるまでは祖の意思を守り通したが、これからは全てを清算して新しい時代に向けて一歩を踏み出そうとしていた。そして、松濤會の競技化への移行を望むがそれは松濤會の設立の趣旨と異なり、また廣西元信及び江上茂がそれを容認するはずはなかった。1963年、早大空手部稲門会会長萩原正義、野口宏の連名で松濤會脱退を文書で正式に通知した。戦後、船越義珍門下生として一つにまとまっていた団体が時代に翻弄されながら、空手部の本意と異なったとしても、社会の事情と立場で別の選択をしなければならない時代の流れでもあった。1964年、全日本空手道連盟が発足し、全日本空手道連盟の会長には早大空手部部長の大浜信泉(早大総長)が就任した。それから57年後の東京2020オリンピック開催では空手道が正式種目となり、早大空手部卒業生が念願のオリンピック出場を果たすことになる。
 船越義珍が理想とする競技を行わない伝統武道を継承する大学空手部は早大空手部現役部員が松濤館学生連盟を去り、中大、専大、学習院大、成城大、東京農工大、東邦大等の大学となった。1962年、松濤會第二代理事長に廣西元信(早大)が就任、高木丈太郎(中大)は「これから進む私たちの空手道は、決して平坦な道ではないだろう。しかし、私たちはあえて勇気もって進もう」、中大空手部は空手道の原点とも言える唐手研究会の頃の慶大、東大、そして早大へと松濤館の歴史を引っ張ってきた草創期の大学空手部に代わって、早大空手部OBの最後の師範となる廣西元信、江上茂を支えて共に船越義珍の遺言を守り、その道が例え茨の道であろうとも私たちは覚悟を持って全てを受け入れ、どんなことがあろうとも恩義に報いる松濤館の大きな責任を背負う決断をした。中大は法曹界の中では裁判官、検察官、弁護士の実務法曹や、大学研究者、企業法務員、行政官等として幅広く活躍する人材を輩出する法曹界の名門大学であるが、早大同様に駅伝などを中心にスポーツにも力を入れている大学である。多くの部活動が競技の優勝を目指している中で、空手部だけが国が推進しているオリンピックなどの競技大会参加を意識した稽古をしない事は空手界から孤立し、大学側から厳しい存続の選択を将来迫られる可能性がある。その中にあっても高木丈太郎は全く動じず中大学員体育会の会長を引き受け、他部活動の競技の優勝を押し進めながらも空手部は競技の栄光を求めず、船越義珍との遺言を優先し競技大会の参加を拒み続けた。そのため、中大空手部としては他の部活動同様に世界大会や国内大会の優勝などを目指し中大の名を上げる華々しい大学体育会での貢献はできないが、大学体育会部員の貢献としてスポーツ一筋もしくは勉強一筋の世界ではなく、文武両道の精神で充実した学生生活を送りながら法曹界や実業界で成功を収める事が可能な良い学生の手本となる多くの卒業生を社会に送り出した。現在の強豪大学の部活動の多くはスポーツ推薦枠の活躍で締められている。現役時代に活躍した選手が卒業後に社会で活躍できる未来があるとは限らない。むしろ、部活動一本で懸命に努力をしてきた多くの大学アスリートたちは、大学卒業後は社会人と学生時代のギャップの現実の中で人生の目標を見失い、自分の能力をどう社会で活かすべきかを悩み、苦悩の人生を生きる卒業生が多いのではないだろうか。また、それは司法試験受験のために勉強一本で法律家を目指す友人以外は人間関係を断ち、学生時代のほとんどの時間を机に向かい合う毎日の努力に努力を重ねてきた学生もトップアスリートと同じであり、社会人となってからは自分のことではなく、人を面倒見ることや多種多様な人たちと関わった経験が少ない学生が社会人になってからは、あまりに学生時代と社会人生活との違いのギャップにどうしたらいいのかが分からず毎日苦しむのではないだろうか。高木丈太郎は別の側面で運動部員の今後のあり方として、選手として活躍するために部活動に所属する部員だけでなく、競技を意識しないで人格形成を求めながら卒業後の華々しい栄光の人生の準備期間として、中道の生き方として部活動に所属する一般学生の部員などの多様な側面に応える部活動のあり方をこれからの大学の発展のためには必要であることを証明した。「私たちの武道は競技大会の優勝のためだけにある分けではない。人の道を開き、国の大道を開いていく素晴らしい道である。その卒業生たちの活躍によって、狭い空手界の栄光だけではなく、日本から世界へと中大の名誉も学生の未来も守られ、必ず社会が繁栄できるはずである。それを証明できるものは残された私たちの心がけ次第である。私たちで船越先生、廣西先生、江上先生の空手道の素晴らしさを証明しようじゃないか。皆には苦労を掛けるかもしれないが、後輩たちに私の想いを伝え続けてほしい」、高木丈太郎は例え自分が捨て石になろうとも時代に左右されることなく自分だけは松濤館を生涯支え、私の一生を終えるまではどんな事があっても恩師のためにこの精神を貫く覚悟を決めていた。高木丈太郎は学閥のしがらみを越え、人類普遍の道徳真理に身を委ねることで、どこの大学空手部員よりも誇らしく、卒業生全員が実業界、法曹界など社会で立派に活躍し、皆が満足できる幸せな人生の未来を描いた。そして、その期待通り、大学時代に学業と部活動の両立をしながら難関国家試験の司法試験などの合格は不可能と思われていたが、多くの空手部の学生が見事に合格を勝ち取り、船越義珍の願いを叶えて社会の一線で活躍することが期待されている紳士の空手部学生を多く輩出した。それにより、空手部の学生たちは親の脛をかじりながら酒場で飲み歩き、暴力と喧嘩に明け暮れるどうしょうもない不良学生の集まりと誤解されていた戦後の悪いイメージを一新させた。また、部活動で自分の事より後輩の面倒を懸命に行うリーダー教育を培った多くの空手部卒業生は一部上場企業の社長や役員などに抜擢されるなど、実業界や弁護士など社会の一線で羽ばたきながら空手道の稽古を生涯続ける中大空手部卒業生が多数誕生した。社会の一線で逞しく活躍するためには勉強一筋ではなく、大学時代に部活動やその他の経験から人間性を鍛え上げて来た人間だからこそ、日本の社会のリーダーにふさわしい人材に成長する事も証明した。そして、一番大事な要素として、学生たちをどこまでも信じる深い愛情が指導者によって学生に注がれなければならない。この時、日本は高木丈太郎の理想と同様に、世界に負けない日本へと時代は動き始め、池田勇人は内閣総理大臣に就任し、「所得倍増論」を発表。日本の高度成長は日本人の生き方まで大きく変えていった。

J(柔拳空手の道)
 1964年、東京オリンピックが開催され、益々スポーツとしての武道が主流となり、オリンピックの柔道競技会場として日本武道館が建設された。この年、船越義珍が出版した著書「空手道教範」(1936年)の復刻版を江上茂のモデルで松濤會から発売している。この書籍の中では新たに第二章組手の基本は、船越義珍が出版した内容から大幅に内容を差し替えられたものである。戦後、空手道が体育教育としての道を歩む際に、空手道の稽古内容が大幅に変更されたため、稽古内容を忠実に紹介するために内容を改定された。そのため、第五自由組手の稽古方法が追記されている。この頃までは戦後の自由組手の稽古は護身のみを目的としたものであり、松濤會でも戦中の頃の戦いを挑むための自由組手とは意味が違うとされて師範ごとの考え方で自由組手の稽古が一時的に許されていた時期と思われる。1970年、物質的な豊かさを謳歌する世代になると、若者の生活態度は乱れ精神教育の重要性が見直された。子供たちに学校や家庭でできない精神教育を空手道の中に求めた時代に入る。この頃は小説家である三島由紀夫が日本人の大和魂の何たるかを示し、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した年でもある。江上茂は、友人から「いつまで、人殺しを教えているのか(今は戦時中ではない)」と罵られている。これからの空手道は、武道である必要性はない。空手道を実戦に使用する事は、今の社会ではいかなる理由があれども禁じられている。一撃必殺の稽古は戦時中に一時的にやむを得ず進めた稽古であり、護身術と言えども過って相手を死傷させてしまえば、手足が武器になる空手家にとっては立場が不利になり、かえって学生たちの人生を台無しにしかねない危険性をはらんでいる。むしろ、相手を一撃で倒すより、人を生涯殺傷させない事の方が難しい。空手指導者として、他人も学生も不幸にしてまで学生たちに一撃必殺の指導にこだわり続けるつもりか。大学空手部はむしろ強すぎる。突き一本で獰猛な虎でさえ一撃で倒す勢いである。学生のためを考えれば、もっと弱くていい。これ以上強くなって誰を倒し、何のためにその力を役立てるつもりか。これからの空手道は護身術として、友情を大切にして稽古を楽しめれば、学生たちには十分な時代である。私たちがこれからの平和な時代を生きるために、学生たちに本当に教えるべき大切な事があるではないか。空手道は立派な人を育てる武道である。その理念こそ失わなければ、どんな道を歩いても先人に申し訳が立ち、空手指導者としては正しい道を進んでいると言えるだろう。戦後、平和な時代の中で、何を学生たちに教えるべきかを真剣に悩んでいた頃の事である。空手道を学びながら「人間の強さと弱さとは何か。そして、人はなぜ強く生きなければいけないのか」という命題に向き合い、人が生きるためには強くあらねば何も達成できない。しかし、本当に人間が必要としている強さは決して腕力の強さだけで推し量れるものではないだろう。人と争うためではない、他人を理解し共に仲良く生きる道を歩もうとする日本人の心である和の道を実現するための稽古にこそ、空手道の稽古から本当に私たちが学ばなければいけない道である。
 この根本思想は船越義珍に影響される部分が大きい。戦前の国際情勢は欧州を中心にブロック経済化が進み、その孤立された国が次の世界大戦に向けてファシズムとして国益(軍事力)を求めた時代に突入していた。日本の軍国主義の勃興はイタリアのムッソリーニやドイツのヒットラーなどの独裁者が英雄として賛美され、言論や出版の自由を制限して労働運動や社会主義運動は激しい弾圧を受けた。船越義珍は武道家である前に、一人の元小学校教師として自由主義の立場に立たれ、せめてこの子供たちには悪い時勢から守りたい。この子供たちには次の時代を背負うべき大切な人たちである。この子供たちにはまだ希望がある。空手道は心豊かな日本の伝統文化であることをこれからの未来を担う学生たちに伝え、この学生たちに空手道の未来を託したい。荒れ狂うファシズムの時代にヒューマニズムの精神を生涯貫く覚悟を決めていた。その時代背景の中で血気盛んな学生たちには、愛する人たちを守るための自由組手の稽古はただの暴力でなく、実戦力(自由組手)の伴わない武道家の正義など無意味であるという強い信念を持っていた。そのため、日本と武道界が軍事教育の大きな流れの中に巻き込まれる中で、ただ一人争いのない永遠の平和を願い自由組手に反対する船越義珍の理想であった平和の考え方は国家の大事な時に滑稽にも見え、綺麗ごとに過ぎない現実離れした老人の戯言に聞こえた。そのため、型しか指導しない義珍に対して多くの空手家から臆病者呼ばわれされ、更に馬鹿にされることになった。船越義珍は全く組手技を知らず、実力に疑問視する人がありますがそうではありません。1935年に出版した空手道教範では自ら実演をして、優れた数十の実戦組手の技を披露しています。また、沖縄県下各処に散在されていた空手型を二百以上も集められ、その二百以上の型の中から十五の型を松濤會の制定型(現在十八の型)にされました。当時の空手家の中では質実剛健の実戦技の優れた空手家であった事は歴史文献の中で十分証明できる。船越義珍は太平洋戦争が始まった1941年12月、20年ぶりに人生最後の沖縄への帰郷をされている。その後は戦局も激しくなり、沖縄は地形が変わるほどに連合軍の攻撃を受け、沖縄県民の四人に一人の命が失われる極めて多数の犠牲者を出し悲惨な状況となった。沖縄には多くの空手家と言われる武人がいたが、国同士が戦争に巻き込まれた現状においては爆弾や銃弾の前ではただ茫然と立ち尽くすだけで全くの無力であり、これを解決する方法は武力ではなく平和理念による平和交渉にしか道はなかった。空手道で本当に学ぶべきところは実戦による技ではなく、稽古から生み出される自分に負けない強さ、人への優しさなどの人格形成が何よりも人生に役立つものとなる。義珍が実戦組手を禁止し、型稽古のみとした理由はそこにある。郷里は遠く離れれば離れるほど愛しく、悲しい思いに苛まれるものである。その山川海野の光景やそこに住む人々の想いに郷土愛に胸を熱くするのが人の情とも言える。船越義珍にとっての空手道とは、沖縄の故郷の「郷土愛、師匠への想い、友情」から派生した一人の人を愛しく想う親愛なる拳であった。決して、やられたらやり返すという復讐心を煽るための考え方はなかった。そして、戦後も今日に至るまで沖縄は基地問題に揺れて不幸な運命をたどっている。船越義珍には敵も味方も存在することなく、「どうしたら弱い立場の庶民の力になり、不幸な人を幸せにすることができるか」、それを実現させるための武道こそが船越義珍の原点であった。船越義珍の真の想いは、もし空手道が実戦の格闘技として確立したならば、必ず戦場の最前線に子供たちを送り出すことになる。空手道は戦場や誰かと争うことによって、誰かを不幸にして泣かせるためには活かしたくないという教育者の想いだった。第二次世界大戦を間近に控えた言論の自由が制限された社会情勢の中で、船越義珍には関東学生空手部の多くの弟子を抱える空手師範として東京帝大の自由組手を認めた場合、多くの関東学生空手部の学生は戦争一色の自由組手の稽古を開始する事は明らかである。船越義珍の真意は心のみに留めているため、当時の大学空手部の学生には船越義珍師範の想いを理解できるほど心の余裕はなかった。世界恐慌が起きた1929年、船越義珍が東京帝大の空手師範を辞任後、空手部員たちは防具組手などを新たに開発し、自由組手の導入のために船越義珍師範を離れて大塚博紀師範と共に新たな流派である和道流を立ち上げることになる。現在の大学空手部では絶対の存在である師範に背くことはあり得ないが、当時の東京帝大は大日本帝国の政府直轄の官立大学として学術研究・官僚養成を目的とした大学であり、優秀な学生たちには師範に背いてでも常に家族を想い、そして友を想い、国のために自分の命と変えてでも日本の役にたちたいという意識は非常に高い純粋な学生であったと考えられる。大塚博紀師範が学生空手部の純粋な気持ちに応えて進めた自由組手の考え方も、船越義珍師範の学生の命を心配した自由組手に反対する理由もどちらが正しかったかという判断は、当時の社会情勢を含んでいる以上、平和な時代を生きる私たちには賛否両論の意見があり、簡単に評価をだせるものではありません。現在の空手道に自由組手はすべきか、そうではないかという単純な意味合いではなく、戦争という時代背景を含む重要な意味があるからである。しかし、一つだけ言える事は二人の師範は自分勝手な考えによる技に対するこだわりだけではなく、学生空手部員を真に心配する親心からの想いであり、共に偉大な方々であったからこそ和道流の開祖、松濤館の開祖として現在も多くの後継者が存在している。
 江上茂の空手理念は大塚博紀の目指す実戦組手の飽くなき探求という点では大きく違っていた。当時の江上茂は日本のために生きる使命感に立ち、大塚博紀と同様に実戦に役立つ自由組手の稽古を開始している。しかし、陸軍中野学校の武道教官として、英雄として賛美され死を覚悟した若き将校に戦場で戦うための実戦空手を指導したが、「戦争は決して英雄でも美談でもない」という船越義珍が重きを置くこの考え方は、日本の敗戦という衝撃的な事実の中で多くの青年たちの命が失われた時代を生きた経験を持つ江上茂だからこそ痛いほどにその意味を理解し、腕力では何も物事は解決できないことを改めて気づかされることになる。戦後、これからの未来ある青年たちの育成のため、戦争と言う過去の過ちを二度と繰り返さないように船越師範が理想とした平和理念の空手道の実現に、十字架を背負う想いで生涯に渡ってその信念を貫く事を誓った。そこには戦後に生き残った者として、戦場で命を落とした者たちに対する深い負い目のような強い感情があっただろうと考えられる。当時の空手は乱暴者が力任せに荒々しく相手を殴ることだけに目的意識を持った武道だったのに対して、力だけに頼らないが決して弱くない合気武術の表現力の美しさに感動させられている。戦後の空手道は体育教育であるため、稽古生が怪我をすることのない絶対的安全性が国から求められ、合気道との違いを明確にするために掴むことは認められなかった。空手道の稽古で安全に稽古を行う場合は、拳を直接打撃することなく、拳を当てない空手(寸止め)の稽古と柔らかい空手(拳を突き切るが、安全のために力と早さを調整)の方法しかなかった。江上茂は中山正敏が目指す寸止めによる稽古生の安全性の確保ではなく、後者の方である寸止めを行わない稽古方法にこだわり、拳の力を限りなく抜く方法を採用していくことになる。自らの求める「柔らかい空手」「拳を当てない空手」「握らない空手」の確立を目指すため、合気武術から発展した親和体道の井上方軒に教えを受けて技が腕力でぶつかる事のない調和した武道の世界に魅了されていった。この取組みは社会が一人一人の資質で形成されたものならば、その一人一人の心に争うためではない稽古方法を実現できれば、皆が穏やかに生活できる社会へつなげることができると考えられていた。今までの江上茂は学生空手部の立役者であり、最強の空手家として多くの空手家から恐れられた。しかし、戦争によって亡くなった有志に代わって、これからの時代を背負う戦後の青年たちに正しい人生の生き方を空手道の指導を通して教えたいという想いに変わっていった。

K(新しいリーダー像)
 1960年代、戦争体験の記憶と戦争による負の遺産から多くの国民は社会でもがき苦しんでいた。学生運動や安保闘争が吹き荒れる激動の時代に、日米安全保障条約は国会で強行採決されたものの、岸内閣は混乱の責任をとって内閣総辞職を余儀なくされた。この激動の時代に、警視庁トップとして学閥の壁を越えて前任の東京帝国大学(現在、東大)出身の中原歵(なかはら ただし)から日本大学出身の警視総監に秦野章が抜擢された。誰もが大学に進学できない時代に家庭の事情で日本大学に働きながら夜に学び、高等文官試験(現在の国家公務員総合職試験)に合格、旧内務省に採用された異例の秀才であり、人並み外れた苦労人である(後に法務大臣就任)。彼が警察庁時代はアイデアマンとして有名で、アメリカのFBI方式の「凶悪犯公開捜査班」、110番と捜査員を結ぶ「初動捜査班」を誕生させるなど、次々に組織の古いしがらみを乗り越えて新しい事にチャレンジした。
 当時の多くの子供たちは社会を信じられなくなり、また自分が信じる思想信条の拠り所を見失い、社会に反骨精神を抱く生き方は若者にかっこよさと憧れを抱かせた。1968年、ゴルゴ13の劇画が人気となった。僕は将来の夢として空手道で誰よりも強くなったら、ヤクザのボデイーガードとしてかっこよく生きたい。空手道を人のために活かすなど、坊主の受け売りのようなそんな高尚な理屈は聞きたくない。社会の事を何も知らない若者がそんな甘い事を言っていると、社会に騙されて自分の人生を後悔する事になる。自分の満たされない人生の感情と怒りを空手道の稽古にぶつけていた時代だった。そんな時代に沖縄県出身の脚本家である金城哲夫は1966年ウルトラマンを生み出した。ウルトラマンと言えば格闘技は覇権争いの道具として喧嘩と暴力を目的とした悪名高いイメージが強い時代に、逆に強くて優しいニュー・ヒーローが誕生し、格闘技は自分の喧嘩のために使うものではなく悪い人からいじめられて困っている弱い人を助け、悪い人に立ち向かう子供たちのヒーローとして格闘技というもののイメージを一新させた。金城哲夫は少年時代に沖縄戦を体験し、防空壕の中での悪夢の体験からいつの日か自分の力ではどうにもできない巨大な怪獣(世界大戦による侵略国)から無抵抗な人々を救い出してくれる理想のヒーローの新たな出現を想像した。彼は日本のどこに正義が存在し、誰を信じて生きれば良いか分からない時代だからこそ、その若者の指針となる現実に存在する新たなヒーロー像が必要である。架空のヒーローの存在を登場させることで、次の時代を担う若者が胸をときめかせて新しい時代に必要なヒーローを想像し、それによって本当に実在するヒーローが到来する未来に願いを込めた。その後、1968年梶原一騎原作漫画が次々に誕生し、社会に大きな反響を呼んだ。名声もない貧しいドヤ街に住む一人の少年鑑別所上がりの矢吹丈がボクシングによって生きる希望を見出す「あしたのジョー」や少年期に孤児院で育った伊達直人は大金を稼ぐために一度悪役レスラーを目指すが、生まれ育った孤児院の子供たちに同じ苦しみを味あわせたくないとファイトマネーのほとんどを援助しながら正義のレスラーに転向して逞しく生きるプロレス漫画の「タイガーマスク」などが登場し、格闘技は自分の人生を犠牲にして社会に尽くす生き方ではなく、自分も大切にして社会も他人も自分のように大切にする中道の新たな生き方の中にこそ、かっこよくて男らしい素晴らしい人生であると次の世代の子供たちに教えた。そして、例え生まれた環境や育ちが恵まれていなくても、社会や運命を怨んでばかりでは何も変わらない。自分の人生に希望を持って生きれば、誰もが幸せな人生を送ることが可能であり、そしてそれ以上の事が実現できる無限の可能性がある事を子供達に教えた。

L(拳禅一致の精神)
 日本の空手道の源流は北禅の嵩山少林寺拳法が中国全土に中国武術として広がり、沖縄に伝えられた修行僧が広めた武術である。嵩山少林寺拳法は人を殺すことは目的とせず、あくまで盗賊などから寺院、僧侶、仏典などを保護する事を目的として仏門の僧侶を護衛する目的で僧侶の中で特別に編制した僧兵の武術です。僧兵は殺傷を目的とした剣を使わずに、六尺棒と素手を基本として精神修養を第一に毎日稽古を行い、盗賊などから少林寺に危険が晒されなければ一生武術は使うことがないように自身に戒めている武道です。琉球王朝は既に薩摩に支配されており、大和民族のように剣によって武士が武力闘争を繰り返す政治社会ではなく、個々人の生活に関わる揉め事に対して唐手術拳法を活かし、平和に暮らす事を望む琉球人の生活スタイルには合っていました。
 今から1400年前、当時の中国は仏教が盛んで念仏仏教、寺院仏教など多くの宗教が存在していました。達磨大師は梁の皇帝に謁見し、仏教本来のあり方に対する誤りを説き、迫害を受けて黄河中流の嵩山少林寺の山中に逃れました。そこで禅の修行を行い、中国嵩山少林寺は禅の源流となりました。また、達磨大師の弟子に慧可(えか)という片手を失っている僧侶がいる。この僧侶は儒教や老荘思想を学んだが納得できず、洛陽香山(現在の龍門山)の永穆寺で修行し、説法のために中国各地を放浪したが自分の悩みを解決出来ず、嵩山少林寺の達磨大師の弟子として生涯を共にした人物である。慧可が片手を失ったのは達磨大師から入門を許されず、一晩雪中で過ごして臂(ひじ)を断ち切って誠意を示し許されたという説があるが、実はもう一つの説があり、慧可は盗賊に襲われて片手を失ったという説もある。説法には困難が多く常に迫害や妨害にさらされており、一般市民と共に苦行労働を行うなど多くの民衆に慕われた慧可は「慧可のせいで私は尊敬されない」と匡救寺の僧弁和から逆恨み受け、僧弁和は役人と共謀して「慧可は嘘の法門を説いている」と皆に言いふらし、無実の罪で慧可は処刑させられている。仏教は慈悲と忍耐を説き武術と関係ないと思う人がいるかもしれないが、仏教のお経は呪術ではありません。それを以て、迫害から身を守れるわけではない。むしろ、慈悲の精神を説き、何一つ悪口を言わず、罪を犯さない仲間思いの達磨大師の後継者である中国禅宗の二祖の偉大な僧侶でさえも、命の危険に晒された上に同門の僧侶にはめられて殺されているのです。お経は自分自身の人生の姿勢を毎日正すことが目的であり、自分の生き方に良い影響を与えてもそれ自体に特別な力が備わっている分けではありません。何もしないでただお経を読んでいるだけでは、大切な人も自分の人生も守れないのです。力なき正義は無力であり、大切な人たちを守るためには戦わなければいけないと、僧侶の中で師匠を命懸けで守ろうとする護衛隊が発足された。それが嵩山少林寺拳法の拳士たちである。現在、多くの人々が平和に暮らせている理由には国家が武力政治ではなく、法治国家として国民が法律のルールを守って暮らせているため、武士の存在はいらなくなったのです。武力政治による法律が存在しない時代、日本の禅宗は鎌倉幕府など手厚い保護を受けているため寺の護衛は武士が役割を担い、仏道修行は僧侶の役目として役割が分かれています。しかし、宗派によっては時の権力者から保護を受けられず、むしろ迫害を伴う宗派も数多く存在しました。日本でも織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行った際には、多くの僧侶が織田信長軍に立ち向かい護衛をしましたが、当時の僧侶、庶民等は織田信長軍に皆殺しの状況にされています。中国の嵩山少林寺は梁の皇帝に憎まれたため、少林寺は襲撃される側であったことが僧侶も武術を学んだ理由です。そのため、嵩山少林寺では一切武術を学ばない仏道修行を専門に行う僧侶と修行僧の邪魔をさせないために命懸けで護衛するために拳法を学ぶ僧侶とで役割を分けて、梁の皇帝からの襲撃に備えて発展しました。僧侶の護衛に拳法を学ぶ僧侶は生涯武術の修行を仏道修行と捉えて武術の稽古に励むことになります。空手道は中国の嵩山少林寺から伝来し、沖縄から本土に渡ってきました。空手道は禅宗の円覚寺との関係性は全くないように思えますが、実は剣道以上に生みの親が同じであるという深い関係性のある武道なのです。
 現在日本に残っている重要文化財、国宝に指定されている仏像や仏画の多くは武器を持ち、防具を身に付けています。仏教における不動明王の降魔の利剣、金剛明王の独鈷や三鈷、四天王の槍や剣、慈悲無量の観世音菩薩でも弓矢や刀剣、槍等の武器を所持している。しかし、仏教徒は武器及び武術を持ちなさいという意味ではありません。仏道修行者には精神的及び肉体的に迫害の危険に晒される危険性が最も高いため、仏道修行者は例え命を奪われる危険に晒されようとも神仏が必ず仏道修行者を守ってくれているという心の安心感を与えるために仏像にもあえて武器を持たせています。僧侶と言えども赤子として生まれた人である以上、どんなに修行しても人間以上にも人間以下にもなれない。誰もが死を恐れるように、僧侶にも人生の苦しみや死の恐怖はあるのです。法律が存在しない時代に正しい者が正しいというだけでは生きられない生存競争、単に仏教徒というだけで無抵抗で殺されても良いという考え方ではありません。それでも当時の僧侶は殺生を禁じ、武力を使わずに世界を安穏にする道を説きました。しかし、民衆を救済すべく理想を持つ僧侶も仏教の書物も全て焼き払われては、次世代に仏教思想を継承することはできません。その思想を守るためにやむなく人を殺傷しないことを目的に僧侶も拳法を学び、拳法は仏教の守護神となったと言えます。力の裏づけのない正義など正義として通用しない。その理念を基に中国嵩山少林寺拳法は誕生し、その理念は空手道の誕生へと歴史は繋がれて行ったと言えます。現在は武力社会ではないため僧兵の存在は武士と共になくなりましたが、その武術の役割は個々人に危険が晒された場合に護身として活かされていました。今の平和な社会ではその役割も終えて、スポーツとして現在親しまれています。戦前は武道だけでなく、人の幸せを祈るはずの神社、仏閣、全てが戦争の道具となりました。物事は社会と人で決まります。何の目的に役立てるのかが最も大切なのです。

M(江上茂、再び空手部監督就任)
 1966年、江上茂は中大、学習院大及び東邦大の空手部監督として指導を行っており、船越師範の平法の道の空手道として柔拳空手の道の確立を目指している。当時の江上門下生たちは、血気極まる力を持て余し、喧嘩なら誰にも負けるわけはないという自信に満ち溢れていた。そのままにしたら、人生を誤ってしまうのではないかというぐらい純粋な青年たちである。空手道の型に存在する人を殺傷する要素を見直し、誤って人を殺めない技の実現に取り組んでいる。安全性の高い約束組手の稽古に重点を置き、自由組手の稽古については見送られた。稽古生たちに生きる力を付けさせるために、通常の稽古より厳しい人間の限界を超える稽古を大学空手部に実施している。相手へのダメージを重視した剛拳の型稽古と動いている相手に怪我をさせることなく身を守る柔拳の組手稽古は、身体の筋力の使い方が大きく異なっていることに気づき、型稽古に柔拳の概念を取り入れ始めている。しかし、沖縄から伝承した正統な剛拳の空手道を必死に守り抜こうとしてきた伝統空手の草創期の廣西元信等の指導者から、合気道の柔拳の力みのない突き方を新たに型の動きに取り入れたことは裏切りにも似た多くの反発を内外共に生んでしまった。また、松濤會だけでなく空手道の発展と空手競技化の実現のために技の統一化を図ろうとする全日本空手道連盟の動きと固定観念にとらわれた日本の空手界の中では、江上茂のような自由な発想である空手道は異端と解釈され、江上空手として技が一般に受け入れられるためには大きな発想の転換が必要であったためである。この事が松濤會の新たな可能性を広げる機会になると共に、正統な空手道を継承する他の空手団体や専修大、江上流空手として新たな道を模索しようとする中大等、後に多くの指導者同士の確執を生み組織内から新たな武道の創設(新体道など)を目指す者や江上空手と称して一部の松濤會実業団連盟から独立を目指す門人が現れてしまった。
 江上茂の想いの先には、空に国境がないように空手道に国境などあるはずがない、船越空手を原点として何にものにも縛られず争う事のない、皆が一つの方向を目指して渡り鳥のように自由に羽ばたく事ができる空手界の建設こそが江上の理想であった。江上茂の目指す空手を理想に近づけた門人たちは、皮肉にも日本よりも流派間の争いに巻き込まれなかった海外の門人たちに共感を与え、柔術を学ぶ者たちに大きく貢献した。空手道は元々沖縄の型を中心として発展させた伝統武道である。それ故に基本に忠実であるために固い動きになりやすい。しかし、その沖縄の空手も元をたどれば中国武術から影響を受けている。実戦の武術として栄えた中国武術の動きは自然体であり、実戦を意識すればするほど動きが柔らかくなるというのは武道の道理である。スポーツ競技である全日本空手道連盟主催の空手競技も形試合は固い動きだが、組手試合のフットワークは柔らかく保っている。江上茂の動きは形演武に実戦を意識したものであったと考えれば普通に理解できるだろう。

N(新松濤館道場の再建)
 1976年、船越義珍の悲願であった東京大空襲で焼失した旧松濤館道場を師匠(船越義珍)の遺言に従い、廣西元信理事長らと共に松濤會本部道場・松濤館を東京芝浦(現在は東京菊川に移転)を新たに再建させた。新松濤館道場の再建後の初代館長には江上茂が就任している。江上茂には修破離の武道の世界での船越義珍を離れるための立派な実力を備えていたが、あえて船越義珍の後継者として旧大日本空手道松濤館の歴史を継承する第二代館長の立場に己を置き、松濤館の発展に生涯を捧げられている。それは江上茂が船越師範に初めて空手道を教えてもらい、そして父親のように親身になって自分の事を指導し続けてくれた船越師範に対して最後にできる恩返しと親孝行であったと考えられる。そして、バラバラになってしまった後進の心がまた一つにまとまる事を願い、空手界を平穏にする唯一の道であると彼自身が考えられていたのではないかと考えられる。
 現在の日本本土初となる旧松濤館道場を再建させ、船越義珍の魂と意志を後進に継承することが何よりも大事であるという理念である。専大のように当初の技を守る事は、歴史と文化を継承したものの使命と責任である。しかし、歴史を未来に繋げるためには、その時代に適応した中大のように独創的な文化の融合を取り入れる必要がある。専大と中大の存在は技の相反する存在でありながら、互いに尊い存在である事に気づかされることになる。それは廣西元信と江上茂の存在にも似ている。空手道は柔道のように一つの流派だけに認められた武道ではなく、多くの流派と文化が認められた多様性のある武道であり、そのため極真空手など様々な空手道のあり方が存在する。船越義珍は生涯に渡って空手道を一つの流派名で名乗ることはなかった。その事によって、船越義珍の弟子が設立した多くの団体が、切磋琢磨しながら武道空手の道を歩め、船越義珍が守りたかった沖縄の伝統空手の武術の継承が今も途絶える事なく、堂々と活躍できる道を残す事ができている。松濤會のあり方は船越義珍が理想とした空手道の姿で出来上がっている事を忘れてはならない。その船越義珍の魂を継承する江上茂はこの世に自分の名を遺す事や立身出世などという小さな考えはない。彼自身の魂は後進のために空手道の道を開くことに懸命に生き、生活苦や人生に悩む若き青年たちを懸命に空手指導だけでなく、親身になって自分事のように励まし続ける人であった。類稀なる実力を備え、戦前から戦後の世を駆け抜け、廣西元信同様に近代空手道が確立するまで空手道の歴史に大きく関わった人物の一人である。新松濤館道場再建から5年後(1981年)、人生の最後まで道場に立ち続け、多くの人たちに惜しまれながら人生を終えている(享年68歳)。江上茂が武道空手の復興を求めたのは、特別な一派を立てようとする野心からではない。船越義珍が目指す伝統武道の復興と共に、人道主義(人間形成)の道を開こうとする純粋な心からである。

O(松濤會第三代会長 廣西元信就任)
 1985年、廣西元信は船越義珍の空手道教範(復刻版)を修正を加えない方法で、内部向けに販売している。この空手道教範には義珍空手の真の姿が記載されており、現在の空手道で禁じ手と言われている握り技が多数掲載されている。しかし、一度進んだ歴史を元に戻すことは難しい。廣西元信の戦前の稽古内容に戻す想いは叶えられず、復刻して直ぐに廃刊となっている。廣西元信は江上茂元第二代館長が亡くなられ、これからの松濤會空手のあり方は技が効くか効かないかは一番重要な事ではない。例えば、いざという時の護身のために、自分の身体を鋭い剣やピストルのように作り上げても誰も幸せには成れない。実戦を意識した稽古方法はそのつもりがなくても、自分の実力がどのレベルか試して見たくなるのが人の心情である。相手に怪我を負わせた場合、自分の人生を台無しにするだけでなく、大学空手部の名誉を失墜させ、空手界全体の稽古方法の見直し、もしくは自粛しなければいけない事になる。素人でも喧嘩によって、誤って人を死傷させてしまう事件が後を絶たない。相手を確実に死傷させるために、一撃必殺の巻き藁を突き、瓦割りの稽古などは必要ない。また、格闘技を使用した勝利は、一般社会では敗北を意味し人望をも失う。空手道の型は全て攻撃からではなく、受けから始まっている。受けと言っても、自分の身を守るためだけのものではない。自分の愛する家族、友人、弱い立場の人の身に危険が迫る時、その大切な人たちを守ってあげるための受け手である。自分の人生を大切にして生きたいのであれば、自分の感情をコントロールした戦わない勇気こそ、現代武道では求められている。自分自身の恐怖心に打ち克ち、力比べで負けることがあっても常に冷静さを保ち、自分の心が折れない強い自分を作る事が一番大切である。人生は自分で敗けと諦めなければ敗けではない。他人から意気地無しと馬鹿にされる事があろうとも、いいじゃないか。武道家としてはいつの日か最高の名誉として誇らしく思える時が来るだろう。自分が自分である証は、学校名でも職場の肩書きでも、ましてや戦いの戦歴の武勇伝の中にある訳ではない。自分が自分である証は、誰にも汚す事ができない自分の心の中にある志(こころざし)の中にだけ存在する。また、いつも世間から見える自分の格好ばかり気にして生きていると、いつの間にか本当の自分の良い生き方と悪い生き方が分からなくなってしまう。格好など付けず一途に稽古に励む方が、青年は輝きを放ち数倍格好良く見えている。松濤會は格好など付けずに何があっても堂々と進めばいい。今までのような実戦組手の空手道のあり方(寸止め、柔らかい空手)に縛られることなく、日常生活に価値がある精神修養の型を中心とした船越義珍が目指していた真の空手道に立ち戻ることを表明した強い意志の表われであると考えられる。廣西元信は「空手は身体で、空中に字を書くようなものである」と述べられている。指導者は稽古生が空中に字を書いている間、稽古生の癖を直してあげれば、身体上のこの癖が直った頃には傲慢な精神も直り、中庸の心を会得した立派な人に育つ。これが私にとって本当に楽しみであり、松濤會が試合をしない空手を目指すべき必要性はここにあります。実戦の結果を意識した指導は、この指導方法と結果が真逆の結果として現れてしまう。憎しみや復讐心を煽る指導ではなく、書道のように公明正大な落ち着いた心を養い、お互いを敬い人間性の向上に努める事である。暴力による解決ではなく、相手を許す寛大さもその人の自信と心の強さがあってこそ、始めて受け入れる事ができる。空手道で学ぶべきところは、格闘技の強さだけではない。人としての振る舞いと高い道徳性の向上を目指す事こそ、現代武道の心である。廣西元信は戦争の混乱の時代、空手道こそ大切な人を守るために人生で必要であり、肉体と精神を鍛え上げて強くなってこそ、日本のために役に立てる人に成れると信じて生きる時代だった。しかし、戦後ハードパワーは人を幸せにするものではなく、ソフトパワーこそ人を幸せにするものであるという時代に変わった際には、日本の将来のために空手指導者の道だけでなく、政治、経済学などの研究などにも力を入れた学術的分野にも取り組んでいる。
 1995年、松濤會空手のさらなる発展のために第三代会長に廣西元信、三代理事長及び松濤館第三代館長に高木丈太郎が就任した。高木丈太郎が第三代館長に就任すると、約束組手の審査を昇段審査会で実施させている。瀧田第四代館長も館長稽古で型の分解組手を積極的に実施し、型の意味を理解して稽古を行う重要性を日々指導している。この組手主体とした稽古方法は、武道性の理念を失わないために型で演じられる技を分解組手で実演することにより、型演武に深みのある味わいのある演武が可能となる。過去に存在した流派武術の栄枯盛衰の歴史を振り返ってみると、固定観念のみに固執してきた流派は修破離の各領域を超えることができず姿を消している。先人の想いの追求を忘れた指導者が、先人が何を学び、何を後進に伝えようとしたのかを見失い、組織の進むべき道を見誤り流派の持つ存在価値を壊してしまったためである。もし、私たちが同じ過ちを犯したならば、その責任は大きい。稽古とは「古(いにしえ)をかんがえる」ことであり、歴史について深く考えながら稽古を行う事が必要である。歴史には松濤會の存在する本当の意味が隠されている。しかし、伝統文化を守るだけでなく、多くの人の生活や人生に価値あるものと進化し続けなければならいところに、先人たちの多くの苦悩がのしかかっていた。先人達は長い歴史の中で、血と汗を流しながら技術を追及し真理へ辿り着くための手法を遺されました。私たちは己に慢心を起こすことなく先人の技を素直に学び、斬新な技の理解の取組みでこの先人の真理に辿り着き、技を守り抜かなければいけない。そして、ただ強いだけでない、誰かの未来を輝かしいものにできる本当の強さを求めながら、新しい取り組みにも挑戦しなければいけない課題が私たちにはある。2016年、日本空手道松濤會は創立80周年を迎え、学生連盟、一般部及び少年部(中学生)の一堂を会して第一回全国松濤會演武大会が開催された。高木丈太郎元館長は亡くなる数ヶ月前、「創立80周年演武大会は素晴らしかった。毎年、演武大会を開催することは私の願いである」、また学生空手部に対しては「これからも松濤會学生連盟は自由組手(競技)を行うことなく、お互いの技の違いを認め合い、切磋琢磨しながら武道の精神と技術の継承をお願いしたい」と遺言(2016年永眠)のように語られている。演武大会の当日は弱った体に鞭を打ちながら、その日は珍しく最後まで残られていた。演武大会を一人で見つめる目は、「私の役目は既に終わった。これからは立派な後進が引き継いでくれる事に期待したい」と今までの自分の人生を振り返りながら皆を見つめていた。木丈太郎は太平洋戦争末期の学徒動員の時代、1944年の戦争の真っ只中に中大予科入学と同時に空手部に入学し、在学中は軍需工場に働きに行かされるなど、1950年に中大空手部を主将として卒業して以来、近代空手道の礎を作る厳しい時代を生きてきた。戦後の焼け野原の大地で日本の復興を夢見ると共に、空手界の行く末を常に案じていた。松濤會の理念を守り抜くことは、例え武道の競技化の時代の流れの中で多くの他団体から非難中傷を受ける事があろうとも、木木丈太郎にとっては弟子として船越師範の信念を守り抜くことであり、同時に廣西、江上両先生の恩に報い、空手界の未来を守り抜くことであると信じて疑う事は一度もなかった。空手道だけでなく、文武両道の精神で三菱地所社長として指揮を執り、日米貿易摩擦の厳しい局面の中で1989年に米ニューヨークの商業施設、ロックフェラーセンターの買収を決断するなど、国際的な注目を浴びながらも戦後日本が失った誇りを取り戻そうとした高木丈太郎の挑戦だった。彼の人生は新たな分野に挑戦し日本経済の発展にも貢献した素晴らしい人生だった。その人生は多くの後輩たちに空手道を教えるだけでなく、身を持って師弟の道に生きる人生の素晴らしさと男らしさを教えたと言えるだろう。また、柳澤基弘(2012年永眠)は「我が空手人生に悔いなし」という最後の言葉を親族に伝え、戦中から戦後を駆け抜けた廣西元信及び江上茂に次ぐ松濤會空手の大きな功績を残した二人の空手家はこの世を去った。

P(松濤會の世代交代)
 新たな次世代のリーダーの幕を開けると、大学空手部出身者が空手界を先導してきた歴史から門人からもリーダーに相応しい人材が続々と育ち、松濤會理事長(会長相当)に中尾秀光第四代理事長(元三井住友銀行専務取締役)が高木丈太郎第三代理事長の後を引き継ぎ、松濤會の役員で構成される経営推進会議を立ち上げ、松濤會会員が安心して稽古に励めるように財政健全化の目的のために組織体制の抜本的な見直しを開始した。松濤會は高木丈太郎元館長の希望されていた一般部の全国演武大会の開催を実行に移し、船越義珍の志を継承する全国の団体が弧塁に立てこもらずに、同じ志を持つ門人で団結しようと新たな一歩を踏み出したのである。そこにはある本部指導員の献身的な開催への強い想いの訴えが実り、毎年行事開催の責任者として諦めることなく実行に移したからである。また、同年に中大空手部監督を立派に務め上げた経験を持つ、元松濤館副指導部長の瀧田良徳が松濤館館長に就任した。新館長は2020年開催予定の東京オリンピックで、空手道が正式競技種目になったことは、空手道がより一層注目される良い機会である。私たちもこの時代の流れの中で、私たちの空手道のスタンスと立場を変えることなく、本部道場を中心に支部、学生連盟等、皆で力を合わせて先人から脈々と受け継がれてきた松濤會をさらに発展させていきたいと述べられている。
 学生空手部の志高き若武者たちは、1971年松濤會学生連盟(1936年旧学生空手道連盟発足)を新たに再発足させ、毎年学生連盟演武大会を開催している。この演武大会は数百年前から行なっていた昔の武道家たちが日々の国家安泰を神仏に奉納し、平和への祈りのために実施されていた演武大会と同じ精神で行われている。そのため、この大会には荒々しく優勝を争う競技はなく、静寂、美、そして日本人の誇りに包まれた美しい演武を学生たちが披露する場となっている。これからも松濤會学生空手部は武道空手の火を未来に繋ごうと松濤會学生連盟(中央大学、専修大学、学習院大学及び成城大学)及び東京農工大学含む各大学OBたちによって獅子の稽古は続けられている。

Q松濤會の使命
 松濤會本部道場「松濤館」は東京大空襲で一度は焼失して幕は降ろされましたが、戦後に船越義珍を生涯師匠として、技と心を継承するという明確な役割を持って再復興した団体である。その技と心は沖縄の唐手時代に継承した空手道の形を中心として人格形成を最大の稽古の目的とし、和を以て貴しとなす武道の精神にあります。船越義珍が本土に空手道を普及するにあたり、最大に評価できる点は空手道を国民教育の目的とした道徳的・教育的な価値に空手道を高めたことである。そして、空手道の自由組手の稽古は頑なに反対されました。しかし、それは空手道が柔道や剣道のように、競技のための自由組手に向かなかったという単純な理由ではありません。自由組手に反対した理由には二つが考えられます。一つは当時の社会情勢は第二次世界大戦の影響により、多くの師範が目指した空手道は人の命を奪うための戦争を意識した実戦組手であったことである。それはいかなる国の大義があれども絶対に認めないという一つの抵抗でした。一人でも多くの学生たちの命を守るために実戦組手を禁止し、軍事国家と共に進む旧大日本武徳会が財団法人に改組の際には松濤會はこれ以上の戦争協力を避けるために加盟を拒んだ理由と言える。戦時中はオリンピック競技も中止され、空手道自体の競技ルールはまだ確立されていないため、空手競技は存在しませんでした。空手道はあくまで有事の際の自他の護身を目的としており、いかなる理由があっても自分から相手に戦い(戦争等)を仕掛けるための稽古ではないこと。もう一つは戦後の空手道のあり方において、古来から沖縄の琉球拳法の稽古方法については形を中心に稽古を行い、自由組手の稽古は行わないという糸洲安恒及び安里安恒師範から引き継がれた教えにあります。前者の考え方は不殺生の慈悲の精神を持つ仏教の思想に大きく影響されており、基本稽古も組手稽古も自分の精神修行に活かすべきであるという理念を含んでいます。結果的には沖縄戦により多大な被害を被った故郷の沖縄、戦争反対である船越義珍は戦時中と言う説明では片付けられない深い悲しみを感じていたと思われる。戦後の空手競技については、実戦には活かさない国際交流による世界の平和を目的とした競技のために前者の改善は図られているが、後者の理由により沖縄琉球拳法時代の平和の精神を持つ伝統武術に立ち戻り、今でも松濤會は武道の理念を大切にしながら稽古を続けています。現在の空手競技のあり方については空手道の普及を目指すそれぞれの団体の立場の違いであり、同じ空手道を目指すものとして2020年東京オリンピック空手競技の成功と活躍を心から願い、松濤會は競技空手とは別の目的で空手道を純粋に学びたいという稽古生を対象に空手道の稽古を指導しています。空手道は陸上や野球のような真のスポーツと異なり、純粋に試合を楽しむという面以外に格闘技としての一面を持っています。それによって善用されれば社会の公益に貢献できますが、悪用されればその反対に公益を害するものに利用されやすい面を持っていると言えます。そのため、空手道の稽古生が空手道場の門を叩く際には、多くの道場で決して喧嘩に空手を使わずに人格形成と和を目的とするように指導をされます。沖縄琉球拳法は常に薩摩藩と中国の清に虐げられてきた沖縄の琉球王国の歴史と共に育ちました。それは沖縄琉球拳法の修行者は自分の身の危険を避けるため、拳法を修行していることを誰にも知られないように暗闇の中で秘伝として継承した争いを避けるための心得にあると考えられます。それは自分の強さをひけらかすのではなく、日々の生活で謙虚に振る舞い、災いや争いを避ける事を最大の名誉と考える沖縄琉球拳法の思想にあると思われます。その精神は船越義珍から廣西元信へとつながり、江上茂などの幾多の名人に技が磨かれて現在の松濤會にもその精神が脈々と引き継がれています。松濤會が競技試合又は自由組手の稽古を行わない理由には、元々稽古生の身体の安全性と人生の教えとしたものではありますが、大局的観点からの意味では戦時中に東京大空襲で松濤會の本部道場松濤館が焼失し、多くの門人が戦争によって亡くなられた悲劇を二度と繰り返してはならないという深い愛からの船越義珍の強い願いがあり、空手道は暴力による解決ではなく平法を基本としており、喧嘩や戦争などには決して使ってはならないというとても重要な理念が込められています。
 現在の松濤會は長い歴史の中で先駆者たちは既に亡くなり、次の指導者の世代へと移り替わろうとしている。多くの後継者が多くの団体、流派及び同門の中でさえ、それぞれの異なる考え方で技の強さと正しさを証明しようとしている。これから私たちは誰を手本にし、誰を頼りに技を磨いたらいいのだろうと悩む時があるかもしれない。船越義珍師範がご存命であられたら、「私が継承した正しい技と崇高な精神を守り、誰かに頼ることなく自分を信じて自分を頼りに生きよ」と励まされるのではないかと思える。パナソニックを一代で築き上げた経営者である松下幸之助は、松下政経塾の塾生に対して師をもたずして師になった宮本武蔵の如く自分でつかむことの重要性を説き、例え孤独になろうとも生涯をかけて自らの道を切り拓いていくことは決して容易ではない。しかしながら、その模索の中にこそ真のリーダーが生まれると伝えている。この言葉は松下幸之助が父の会社が倒産で失意のどん底に落ちながらも、小学校を中退し丁稚奉公から師を持たず、苦悩の人生の中でも一代でパナソニックを大企業にまで成長させた自身の信念だった。彼の信念の中にはこの混沌とした世相をなんとか根本的に見直し、経営者として社会の諸制度の本来のあり方を考え、共に繁栄の道を歩みたいと念願。PHP研究所「Peace and Happiness through Prosperity」(繁栄によって平和と幸福)を設立して、その理念の実現に向けて人生を掛けて行動をしている。松下幸之助はただ単に自社の繁栄を願った経営者ではなく自分が日本の柱となり、世界に誇れる日本を作って見せるという責任と覚悟を持った大願のような生き方である。その精神の中には船越義珍、江上茂、廣西元信、高木丈太郎の数々の師範に通ずる先人たちの想いがある。ただ、単にスポーツとして競技を楽しむという武道の目的から脱却し、生きた武道として生活に役立ち、幕末の戦乱で民衆の血が大地に流れる事のないように無血開城を行った山岡鉄舟のように社会課題に対して武道家として目を向ける人材の育成はこれからの時代に必要である。人は優れた教育(大学等)を受ける事や良い師匠(教師等)に出逢えるかどうかで、人が成功する上で重要な要素になる事はもちろんである。しかし、もう一つの成長要因として、若き日の自己の運命的な人との出会いや環境(貧困問題、地球環境等への関心など)から得られる優れた自己の感受性をエネルギーに変えて、類まれな実力によって人類の発展に貢献した多くの人物がいる。ただ、それには多くの困難に立ち向かい、長い年月の中で培った血の滲むような努力と経験が必要である。人は誰もが目標を達成させるために必要な経験を自分自身で努力できれば、学歴等に関係なくそれを実現するにふさわしい無限の可能性を持っている。私たちは先人が残してくれた文献や空手道二十訓を学び、武道の持つ修破離の素晴らしい世界観に身をゆだねる事である。未来の空手道は組手競技の発展の中で、更に空手技術が変わり行くだろう。大きな時代の大河の流れの中で、空手の道を見失ってしまう未来が空手界に訪れるかもしれません。そんな時代に流派を問わず、松濤會の存在は武道の大切な何かを思い出させ、その人の人生を輝かせることができる一面を持たなければなりません。これを忘れては、松濤會が松濤會である必要などどこにもない。松濤會は近代空手道の原点の道先案内人であり、その道が例えいばらの道であったとしても、多くの先人たちの残心の想いと願いのために引き返すことも諦めることもできない。武術の強さはもとより、人格完成と誠の道を求めて、あえて競技空手の名誉を求めない理念こそ松濤會空手のプライドである。しかし、稽古生がライバルと競うなど、世界一の武道家を目指してはいけないという事でもありません。武道を学ぶならば自分の高い目標を持ち、限りなく努力し続けるべきです。但し、最も大切な事は空手道を学ぶ目的が善い目的であることが重要です。自分の私利私欲の目的を達成する事だけでなく、多くの人の役に立つために空手道の技と心を全て学び尽くし、この上が存在しない高い水準の実力と品格を目指して、日々厳しい稽古を続ける事が充実した人生に繋がります。自分の見栄のためではなく、誰かを助けるために一生懸命働いてお金を稼ぐことも、多くの人を守るために立身出世の必要性を感じて努力することも決して欲深くはありません。同様に誰かを守れる自分になるために、誰よりも強くなることを目指して稽古することも善い目標だと思います。つまり、自分の行動が必要以上に自分のためだけを求めることであれば欲深い行動となり、他者のためであれば善意の行動と言えます。最もいけない事は、誰かを傷つけるために空手道で学んだ事を使うことです。もしそれがなければ、その努力の結果が多くの人に生きる力を与え、社会の繁栄にもつながっていく事でしょう。武道の価値は勝利の一喜一憂の中だけにあるわけではなく、自分の一生を終える時に後悔のない満足という価値もある。目先の利ばかりを追う生き方ではなく、義の生き方を優先する人は一時的に不利益を被っているように見えても、後の人生が素晴らしいものに変わるのは物事の道理と言えます。松濤會再建当時は、喧嘩に強くなるために始める者も多く、乱暴者の集まりであると誤解された時代であった。松濤會は紳士の武道として、良識ある人々の育成に取り組み、多くの人々が空手界だけでなく国際交流の友情の橋渡しをしてきている。これからの松濤會は深い武道観をさらに高め、本当の武道家の勝負の勝利とは何か。そして、私たち空手家が戦わずして、その先の勝利を目指すことの意味を真剣に考える時が来ている。私たちの武道は、どんな時節の移ろいの中にあっても、変わる事のない真実の武道を求め、その教えをしっかり未来に向かって守っていかなければならない。無形文化遺産の価値は過去の遺産だけにあるのではなく、過去に生きてきた人々の栄光の歴史が現代にも価値あるものとして存在する場合に継承する意味がある。松濤會空手は未来にどんな大切な想いを伝え、何を残せるかというのが私たちの大きな課題である。
 私たちは、自分で自分を決定する力を持っている。だから、自他ともに人を傷つけること。また、誤りを犯すこともある。しかし、明日をどう生きるかで、誤りから立ち直ることも、未来を変えることもできるのです。これからの武道は現実を離れて、老若男女の人々が立場を超えて笑い合いながらお互いを高め合うことができる希望と夢を持てる道場を目指さなければいけない。もし、私たち武道教育者がそのような精神を諦めたら、この殺伐とした砂漠のような現代で誰がそのような場をこれからの若者たちに提供していくのだろうか。私たちの持つ力が活躍できない時代、それは平和な時代を意味している。どこまでも限りなく努力をして磨き上げた力を、一生使うことなきように胸にしまいこみ、武道家の信念として生きていくことこそ誉れである。現在、私たちに本当に必要とされている力は、喧嘩や戦場で必要とされている力ではない。自分らしく生きるために、私たちが正しいと考えている全てであり、力でねじ伏せられている純粋で正直な人々が馬鹿を見ない社会を作ってあげたり、真実と権利を守るために強い心で戦う勇気を持つ非暴力の力です。相手を憎み、暴力で破壊することは誰にでも簡単にできます。しかし、他人を理解し共に生きる道を歩むことは、暴力では達成できず、誰にでもできることではありません。それをできる人は長い人生で培われた優れた人徳に寄らなければ達成できない。これからの日本の教育には理想のない名ばかりの人材育成ではなく、徳育が重要なテーマである。平和な時には、礼儀、友情、信頼に力を入れた稽古を行い、人のためになるように護身術、整体術及び健康法を目的に後世に伝える。武道から生み出される価値は、学歴、社会的地位又は有名企業の名を得るためにあるのではなく、人の資質を磨く事にこそすべて開く可能性を持っている。その資質で最も大切な物は、何事にも揺るがない自分の強い意志である。その意志こそが誰にも縛られることのない、自由、平等、そして平和へ繋がっていく。その可能性はどこまでも果てしなく、無限に広がっている。私たちの目指すべき道は、一本の拳から生みだされる真の意味に誠実に向き合い、その一本の拳に自分の人生を重ね合わせる。その一本の拳によって一人の人間を倒すための拳ではなく、その一本の真剣な稽古と情熱的な教育から培ってきた人格により、世界中のすべての争いと不幸の根を摘み取り、すべての人の輝かしい未来を拓くための稽古であることが、私たち空手家が本当に目指すべき使命ではないだろうか。すべての空手家がその道を歩けば誰もが一回りも成長し、誰もが生きている人生の素晴らしさを感じることができる空手道の道を築くことこそ、何よりも大切な道ではないかと思えてならない。そんな時代がいつの日か訪れることを私たちは願い、その道を実現するために松濤會空手は存在している。

※ 本小説は孔仁門クラブ指導部にて作成し、支部10周年記念誌に掲載しています(令和5年8月15日完結)。本小説は登場人物たちが空手道に生涯を駆けて打ち込んだ背景と高い志の姿を描いています。


3.初級者向け技術について

講義1.追い突き・受け技について
解説 全ての武道に共通する事は、上・中・下段いずれの戦術にも受けは柔、攻めは剛ということである。すなわち、まとわるように、あるいは渦巻くように素早い相手の拳を流したり、巻き込んだりして反撃の機会をつかむ受け技に対して、追い突きは中国の槍(やり)や棍(こん)の突き出す技術から応用され、瞬間的には槍を飛ばすように突く、追い突きの技が開発されたのである。
 
講義2.先の先、後の先とは何か。
解説 先の先とは、相手が先に攻撃しようとしているのを見抜き、相手より先に攻撃する方法。後の先とは、相手の攻撃を防御して反撃に転ずるとき、防御と攻撃が一連の動作となる攻撃法。

講義3.技の上達と安全性に必要なことは何か。
解説 空手道の技は相手の身体への攻撃を目的としているため、硬く、速い拳は危険である。その拳をより安全に組手の稽古に取り入れるためには、拳を相手の寸前で止める方法と拳を柔らかく保ちスピードを落とす方法の2つがある。
 硬く、素早い拳には寸止めの稽古が適し、柔らかく緩やかな拳には突き通す稽古が可能となる。この2つの稽古を通して、空手道の持つ素晴らしい剛柔の技の表現が可能となる。

講義4.形の三要素について
解説 松濤館の形の重要な三要素(力の強弱・体の伸縮・技の緩急)と言われる重要な要素がある。力の強弱とは、突きや受けに力を入れたり、抜いたりすること。体の伸縮とは、体の動きに伸び縮みを意識すること。技の緩急とは、スピードを入れたり、ゆっくり動かすことである。
 例えば、人が拳を握った時には必ずどこかの筋肉が収縮もしくは緊張しています。素早い突きや威力のある突きには、突く時に上腕三頭筋に力が入りますが、逆に体の伸縮を利用して上腕三頭筋は限りなく脱力していなくてはなりません。また、引く時は上腕二頭筋で引っ張り、上腕三頭筋を脱力する必要がある。もし、お互いの筋肉に力が入っていると、お互いの筋肉が収縮し合い、力と素早さが相殺されて遅くて威力のない突きになります。
 形は、ただゆっくりやれば良いと言う事ではありません。形の流れの中で、牽制等の場合には臨場感を意識しながらゆっくりと動かし、筋力が形の流れの中で、腕や足を絞ったり、弛緩と緊張を形の中で、どのように身体を動かすことが最も合理的かを理解しなくてはならないのです。形は組手のように格闘能力を向上させる作業と異なり、人の身体能力を高めていく大切な稽古法の一つです。

講義5.間合いの取り方
解説 間合いとは、自分と相手との距離及び空間をいう。この空間をどのように操るかが勝敗の分かれ道になる。この間合いの距離は、自分と相手の手を伸ばしても届かない距離で調整し、武道空手の場合は間合いを必要としない崩し技、握り技及び足払いが積極的に使われるため、組手の稽古などを行う場合には一歩下がって受ける方法と一歩前に出る方法がある。初心者の場合は、一歩下がる方法で稽古を行うと楽に受けられるが、上級者は間合いを詰めた受け技の方が自分を有利に運ぶことができるため、松濤會は前に出て受ける稽古が多い。

講義6.自然の理を理解できれば、小さな力で大きな効果が可能となる。
解説 老人や子供が鍛え上げた若者に力技で対抗するには肉体的な限界が生じる。しかし、人間の骨格、自然の理を熟知して稽古をすれば、それも不可能ではない。人間は2本足で立っているため、人が動くときにはバランス感覚が重要となる。例えば、大きな大人が小石につまずいて大きなケガをするのはその例である。また、相手に手を握られた際に、相手の手を無理やり外すそうとすると力と力のぶつかり合いとなるため外せない。しかし、熱い鍋を触ったと考えて、自分の耳に手を運ぶ動作を応用すると簡単に外すことができる。これは力みがない自分の持っている本来の自然な動きができるためである。物理的、生理的及び心理的な法則を理解して、技を合わせれば小さな力で大きな力を発揮することが可能となる。つまり、勢いのある相手の攻撃技を利用した交わしによる急所への攻撃、小手返し又崩し等の技により、老人や子供たちでも強くなりたいという夢が、夢ではなくなることが空手道では可能なのである。

講義7.組手を主体にした練習方法
解説 孔仁門は実際の技が通用するために、組手の修練自体は積極的に行っている。守者と攻者が競技ではない、形の意味を検証するための「試し合い」という意味での組手を行う。技術向上のために必要であるからである。空手道の稽古を行う上で、形の稽古は自分の癖を正す重要な稽古法である。その基本となる形の動きを取得したならば、次に形の意味を考える組手の検証を行わなければならない。競技空手も突き詰めて考えれば、技が制限された約束組手の一部に過ぎない。船越義珍が言う、「実践組手(殺し合い)に伴う試合はあり得ない」というのは確かにその通りである(船越義珍の試合競技の賛否の解釈については、この場では趣旨が異なるため差し控えた)。身体の安全性が確保できた勝負にこだわらない。お互いを向上させるための稽古法であれば、先生のご遺志に背くことにはならない。
 組手によって自分自身の技の向上を目指すならば、自分よりも優れた相手もしくは一番苦手な相手を好んで選び、稽古をお願いして行うことは最も大切である。日常の人間関係も仲良しの仲間同士よりも、常に批判にさらされる環境もしくは苦手な相手と交わる事は負の人間関係ではなく、自分の欠点がより一層理解できて自分自身を大きく成長させることができる機会にもなることがある。組手主体の本来の意味は、切磋琢磨しながら人格も技も共に上達を図ることにある。形の技の意味を理解しないで、ただ形を演じているだけでは踊りと変わらない。組手から形の技の意味を理解することで、形の臨場感を演出することが可能となり、自己満足でない真の実力を得ることができる。

講義8.自助努力について
解説 いじめられている人、弱い人を本気で助けたいと言う時は、ただ単に助けるだけでは本人をだめにするか。一時的にしか助けることができない。誰にも頼らずに自分の力で困難を乗り越える力を養わせなければいけない。それが自助努力である。
 世界では自分の力ではどうしようもないと考えるほど複雑な問題を抱える人も多い。それは貧困による飢えに苦しむ子供たちなどである。その場合は、短期的ビジョンと長期的ビジョンを考え、長期的ビジョンとして必ず「自助努力」を促すことが大切である。そして、自分で自分の人生を選択できる教育を促し、自分の人生を生きる事の楽しさを教えることである。

講義9.騎馬立ち、前屈立ちについて
解説 ボクシングなどの実戦を想定した競技では、左右どちらかの足を前に出した高い構えから突き、蹴りの基本練習をし、騎馬立ちや前屈立ちのような低い姿勢からの練習は行わない。騎馬立ちは、もともと中国拳法にある鍛錬法です。
 初歩の頃は、腰を落とすことで足腰の筋力を練るために行い、修練が進むにつれ、足の裏で自分の体重の移動を感じながら、スムーズに重心移動をするための稽古である(中国では馬式、前屈立ちも弓式といって、中国拳法由来の立ち方です)。また、ルールーがない本来の空手は、足の掛け技など多彩な体勢が必要である。空手の基本稽古及び型などはルールのある試合や実戦でそのまま使うための姿勢というわけではないと言えます。
 そして、型稽古などの究極の目的は敵を倒す形の反復だけでなく、自分の体との対話だとも言われます。武術的な動きが、筋肉や骨の一つ一つまでどうできているかを極めたのちも確認していく手段なわけです。つまり、空手の稽古に含まれる動きは、ルールのある試合で使える技の稽古以上に深い意味が含まれています。

講義10.形の隠し技について
解説 空手道の多くの形の中には、身体全体を無駄なく、突き、蹴り、受けに加えて、掴み技や崩し技が隠されている。先入観を捨てて、多彩な技を研究することにより、競技空手を超えた技の表現が可能になる。
 例えば、追突きで構える下段払いは、弾き手で突くだけでなく、前拳で突く「先の突き」という突きがあり、上段・中段・下段払い及び手刀受けには受けから掴み技に転ずることにより、より大きな受け技が可能になる。また、中段受けは受けだけでなく、相手から掴まれた手を外す「外し技」がある。

講義11.攻撃は最大の防御について
解釈 人として現代に生きていく場合、喧嘩ではよく先手必勝と言うが、「先に手を出した方が負け(罪)」と法制化されている。しかし、仮に、人が本当に勝負を必要となった場合には、防御だけでは勝つことができない。実力に大差がない限り、受けだけではいづれ敗れる。武道では負けないことが理想であるが、負けない技術はありえない。どの技にも弱点が必ず存在する。そのため、自らのペースに相手を誘導する自由自在な戦法に繋がるから、「攻撃は最大の防御なり」は一面の真理である。無鉄砲な素人の喧嘩でいう先手必勝とは異なる。もちろん次元の高い技術の世界の場合である。

講義12.一撃必倒について
解説 一撃必倒とは、昔は一撃必殺と呼ばれていた。空手道も剣道の影響で、昔は一撃で相手を倒す稽古が行われていたが、現在は人を殺傷を目的とした稽古は禁じられている。また、空手道は仏門の行として発展してきた経緯もあり、空手道の技で人を殺傷することは許されない。そのため、基本は素手と素足を武器としている。
 この言葉は一撃で相手を必ず倒すことを意味するが、必ずしも一回の攻撃で相手を倒すことではない。そのような気迫で相手に攻撃をしなさいと指導した言葉である。野球に例えるならば、「一球入魂」と同じ意味である。
 この真剣な稽古は、世の中のあらゆる事に対して大いに役立つことである。なぜならば、人生そのものが真剣勝負だからである。「やってみて、失敗したらまたやり直そう」という生ぬるい心構えでは何年やっても空手道の真髄は理解できない。

講義13.武道の真実は唯一つ 
解説 人は完璧を目指し、完璧でありたいと望むがゆえに苦しむことになる。例えば、一面の真実を体得して「これが絶対だ!」と常に確信するが、数年後に「これでいいのだろうか?」と行き詰まる。しかし、人は完全な状態などあり得ないから一生の稽古があり、空手道の意義が存在する。
 空手道は我慢強さを養うための稽古でもある。その稽古の中には人それぞれ体格や環境など様々な物事の不平等や不条理に耐え忍ぶ精神修行も含まれている。より自分の理想に近づこうと努力し続ける以外に道はないだろう。そして、人は考え方、生き方に違いがあって当然である。個性や使命といった違いがあるから大きな価値がある。
 人には個性・好みあるいは環境の違いがあり、また相性があるのであるから、人それぞれ入り易いところから真実へ迫ればよく、どの武道から学んでも必ず最後には真実に行き着くはずである。なぜならば、「真実は唯一つ」であり、武道の真実も一つであるからである。時として、自分自身の立場に立たなければいけない場面もあるかもしれない。しかし、武道家は常に自分さえよければいい、人を排除する心、愚痴をこぼさないよう謙虚に物事の真理を追求する稽古を忘れてはいけない。

講義14.年代に応じた生涯稽古
 十代・二十代の若い頃は、最初から力まない高度な技から学ばずに、若さ漲る力で精一杯突くことで生きている実感と喜びを感じることができる。普通の若者は、最初から空手道の本質を見抜く力があるはずはないのだから、知的好奇心と行動力を活かした稽古を行い、段位、形及び組手の上手・下手における関心の高い部分を伸ばすような方法を取るべきである。指導者はただ子供たちが道を間違えないように見守り、一生懸命に稽古を行う姿勢に対して純粋に褒めてあげれば子供たちの成長につながるだろう。子供たちにとっては目の前に展開されるスピードと迫力に一番興味がある。その表現の裏側に隠れている物事の本質の大切さを理解させることはもう少し後の年代で取り組めば、不必要に力一杯突く事だけが威力のある技ではない事を理解するに違いない。まだ、人生経験の未熟な青年にとっては無理もなく、優れた感性の持ち主ならば理解できるかもしれないがそのような青年はごく僅かである。
 しかし、四十・五十代の世代は、大きく空手道の目的が自然に違ってくる。人生や空手道の大きな壁にぶつかり、師匠に聞いても良い答えが得られず、その壁をどう突き破るかで苦悩する。ある程度の年齢を迎えたら今度は空手道の奥深さを探求するべきである。孔子も論語の中で「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」と宣言されている年代に、四十、五十歳代になっても若い人と同じように力一杯突く事だけにとらわれた猿真似のような形を演じ続けているようでは空手道を理解したとは言えないでしょう。武道の稽古は、年齢に応じたものでなければならないし、そうでなければ生涯武道にはならない。空手道の究極は、強さでも上手さでもないんだと思う。空手道は自分の生涯武道として、誰に罵られようが馬鹿にされようが、自分の信じる道を生涯諦めずにどこまでも続けることが本当に凄いことなんだ。そして、自分の演じる技で誰かを感動させることができるならば、上手い下手に関係なく、それこそが武道なんだ。本当の武道家は、自分の信念のもとに稽古を続けなければものにならない。

講義15.形稽古中心とは、形の極意の探究
解説 空手道の形には、先人が伝えたい技術の伝承である多くの極意が沢山散りばめられている。形は基本技ではない。稽古生は始めから空手道の極意を学ばさせて頂いているのである。その意味では形は組手のような応用技よりもはるかに難しい。
 形の動きが身に着いたら、次なる応用技に移れという意味である。ゆめゆめ「ただ基本を繰り返すこと」と思い込んではならない。形稽古の目的は自由自在の応用変化への道筋であり、基本(形のための形)のための基本ではない。そうでないならば、形の意味など永遠に理解できないだろう。神ならぬ人間である以上、形の単純な繰り返しで、形の意味を理解できるほど単純ではない。
 稽古相手に声を掛け、応用技を組手で何度も思考錯誤して、形の真の意味に近づく努力をする。その結果、形の意味を理解して、また形稽古に戻る稽古を繰り返すことである。実は空手道とは技を知り、人を知る道である。応用技の組手から形の意味を知るために、優れた師範を求め、信頼できるライバルを求め、その稽古の中から人の暖かさと大切さを知ることができる。空手道の稽古は一人稽古だと思ってはいけない。実は団体稽古なのである。

講義16.技の表と裏について
解説 船越義珍の空手道教範には、空手道の組手を行う場合には表と裏の稽古方法が記載されているが、裏の技の存在は多くの人が知らない。例えば、表で組手を行う場合は、右手の追突きを左で受けるというのが一般である。しかし、裏の場合は右手の追突きを右手で受けるというのが裏の技の受け方である。
 実戦組手の場合は、表の技よりも裏の技はとても優れた技であるが、昔の武人たちは秘術として技の伝承を行っていたため、裏技は同門以外には教えない事で対応していたと言われている。現在は全ての技を全て公開して稽古を行っているので、松濤會は積極的に表技と裏技を同じように稽古を行うべきである。

講義17.水槽の中のピラニア
解説 観賞用として海外でも人気の高い錦鯉を、ブラジルに空輸するとする。成田からブラジルの首都サンパウロまでは、直行便でも30時間近くかかる。到着時にコイ達が全滅するということは、輸出開始当初はめずらしいことではなかった。
 ある時、実験的に、錦鯉を30〜40匹入れた水槽に数匹のピラニアを一緒に入れて空輸したところ、長いフライト時間や無謀な環境にも関わらず、コイ達はすべてピンピンしていた。この実験結果が意味するものは何か。それは、ストレスは必ずしも悪ではないということである。ピラニアと同じ水槽に入れられた錦鯉の場合も、「食うか食われるか」の緊張感が細胞の活性化等に繋がって元気に目的地まで生き延びた。
 武道の稽古も同じように厳しい稽古により、自分の体力の限界を超える最大のストレスこそ、自分自身の変革と共に強さと優しさを得る事ができる。そして、何物も恐れる事のない自分によって、明日への希望の力も手にすることができる。

講義18.日本人初の8000メートル峰全14座の登頂者の言葉
 日本の登山家の竹内洋岳は、世界29人目に日本人初の8000メートル峰全14座の登頂者となった。彼は山に登るにあたり、体を鍛え上げたりはせずに「死」というものを強く意識したイメージトレーニングに力を入れているという。松濤會空手も同じように、体を鍛え上げる筋力トレーニングは行わない。生死を意識した技の怖さ、真剣に稽古する事の大切さ、そして自分の人生を真剣に生きる大切さを学んでいく。一流の道を志す者は多くの点で共通するものがある。また、登山については、14座登頂後明確に「登山はスポーツでなければいけないと思います」と断言している。登山はスポーツのようにタイムを競ったりはしないが、「登山はスポーツか」という問いについては、『スポーツではないのだから』という考えが、逃げになってしまう」と続けている。
 松濤會空手は、「武道」と「スポーツ」のどちらの部類に属するかについては武道であると説明している。しかし、松濤會空手の稽古生はスポーツの競技性を捨てる事で、敗北という屈辱、緊張感、そしてプライドを傷付けられる事への恐怖感からの逃げ場にもなっている。その心の開放が松濤會空手の更なる飛躍を阻害しているようにも思われる。武道は競技でない、しかし闘争の格闘技であることを忘れてはいけない。自分の流派を飛び越えて、全世界の武道家に自分の技を披露する見せ場を持ちながら、全世界の武道に戦いを挑む虎のような闘争心がなければいけない。そして、今のスポーツ空手は平和を理想とした競技性を持つ紳士的な武道空手へと進化している。私たち空手家がどのような役割で社会貢献するかを忘れなければ、武道とスポーツを明確に分ける事ができない。どちらの道の人々であろうとも、臆することなく競技ではない技の試し合いをすべきである。

講義19.空手道の生涯稽古
解説 空手道は基本が大切です。日々基本を繰り返すため、最初は飽きてしまうかもしれません。しかし、あきらめずに続けることが何よりも大切です。また、一つ一つ壁を乗り越えながら稽古を続ける時、その基本が大きな意味を持つことに気づくでしょう。その「気づき」の大切さを理解したならば、生涯空手の一歩の始まりです。
 拳を愛し、自分を愛し、友人、同志を愛することは、全世界の人々も愛することができる。正拳は常に正しい愛情によってのみ培われ、人間も成長していける。そして、もっと深く、もっと高い理想を見つめている者だけが汲めども尽きない味わいをもって、その人を魅了してしまうのである。
 空手道は高度の技術と広く深い意味を持つ。一生涯かけて練習しても尽きることのない道です。特に、初心者は多少困難にあっても挫折しないようにしてほしいものです。

4.初級者向け心術について

講義1.稽古の目標・夢を決めること。
解説 人間の行動がエネルギッシュに発揮されるためには、その原動力である目標と夢が必要である。空手道の稽古を通して、心身共に健全で逞しい力を身に付けることにより、他人に頼ることなく自分で自分の人生を切り開く必要条件を備えることができる。その実力を備えた時に、「何をすべきか。何を目指したいのか」の夢が描けた時に、より一層空手道が楽しくなっていく。

講義2.少年よ、大志を抱け!そして、紳士たれ!
解説 1876年7月、マサチューセッツ農科大学のクラーク博士が、新島襄の紹介で札幌農学校教頭(現北海道大学)に赴任した。札幌農学校は、「武士道」の著作者新渡戸稲造がクラーク博士の二期生として学んだ学校である。クラーク博士の日本の功績は、たった1年でクラーク山脈と言われるほど日本の明治維新の新時代に活躍する人材を育てたことである。これは指導者が、情熱をエネルギーとして意識を集中させた時、人がプールに飛び込むのと同じように水の波紋が広がり、その意識が強い意思となり、多くの人に影響していくのと同じ原理である。
 博士が札幌農学校教頭時代に決めた校則は、ただの一つで「ジェントルマン(紳士)たれ!」だった。空手道の世界で最も大切なことは、成功を収めることではなく、人間の持つ可能性を信じて、紳士として自分を高め、自分を磨くことである。大きな目標に向かって生きる人は光っている。そして、真剣に生きる人は輝いている。松濤会の空手道は、多くの人の人生を輝かしいものにし、人を活かすための武道を目指している。誰よりも大きく、深く、輝いた人生である。

○Boys, be ambitious.(Wiliam Smith Clark)
 Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,
 not for that evanescent thing which men call fame.
 Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.

 少年よ、大志を抱け! (ウィリアム・スミス・クラーク)
 しかし、金を求める大志であってはならない。
 利己心を求める大志であってはならない。
 名声という、つかの間のものを求める大志であってはならない。
 人はいかに生きるべきか、その道を全うするために大志を抱け。

講義3.礼儀について
解説 礼儀正しく、節度ある態度で人に接し、正しい言葉使いをすることは、武道家である前に常識人として最も大切なことです。礼儀正しい人はそれだけで争いを避けることもできるのです。「よろしくお願いいたします。ありがとうございました。」等、誰に対しても元気よく挨拶しましょう。
 道場に入る時は、必ず自分の履物を揃えて、心の中で「よろしくお願いいたします」との思いを込めて一礼をして入りましょう。また、練習の開始前に全員で自分の心を磨く気持ちで綺麗に掃除することが、一日気持ちの良い稽古になります。従って、掃除は先輩・後輩に関係なく、またどんなに立場が高い人でも行うべき大切な心得です。

講義4.空手道の稽古は素直に学ぶ
解説 空手道の稽古は、「履物を揃える。挨拶をする。掃除をする。服装を気をつける。」という当たり前のところから学びます。自分自身の足元すら疎かにし、心の余裕のない人に、物事の真理を追究するという大きなテーマを達成することができないからである。最近は要領よく、合理的に結果を求める時代であるため、急いで結果を求めるあまりに稽古に意味がないことを恐れる人が多い。それよりも「どうしたら自分のモチベーションを高められるか。自分自身をどうしたら向上させられるのか。」という気持ちを失うことを恐れなければいけない。
 日本の禅寺の行事には、長い時間ただ坐るだけの座禅(ざぜん)やただ食を断つ断食(だんじき)がある。日常生活に何の役に立たない、行事に多くの人が価値あるものだと足を運ぶのはなぜでしょうか。貧乏による飢えは不幸であるが、断食やダイエットには希望あるように、大切なのは稽古法にあるのではなく、素直に一所懸命に稽古しようという気構えに価値が生み出されるのである。そういった誰でもできる当たり前の努力を積み重ねた人は、他人にはどうしても奇跡的であり、一目置く人に見えてしまうものである。

講義5.黙想(もくそう)について
解説 空手道の稽古前に10秒前後の目を閉じて行う黙想があります。学生やサラリーマン、どんな立場が高い人でも普段の自分の立場を忘れ、一人の武道家へ自分の気持ちを切り替え、指導者に対して謙虚に教えを受けて修行をすることを意味します。また、終わりの黙想は逆に普段の自分に心を切り替え、高揚した気持ちを落ち着けながら普段の生活に戻ることを意味する。

講義6.空手道を学ぶ上で大切なこと。
解説 ナポレオンは、コルシカ島の貧しい境遇で育った。そんな貧乏将校(24歳)が、フランス革命の大動乱が起こると共に未熟な軍隊を従え、自由・平等・博愛の精神の息吹を上げる新しい世界秩序の樹立を目指して市民革命の先頭に立ち、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。その後、わずか10年、35歳という若さでフランスの皇帝にまで駆け上がる偉業を成し遂げた軍人である。
 ナポレオンは、学ぶ上で最も大切なことを次のように述べている。「(物事を学ぶ上で最も大事なことは)歴史を学び、歴史について深く瞑想(考える)することを祈る(必要)。歴史に真(本当)の意味が隠されている。しかし、その人に聖なる火(熱い情熱)、善なる魂(正義に対する強い心)を持っていないならば、何(武術)を学ぼうとも(社会で)役に立たないだろう」と言われている。空手道の稽古生は、しっかり歴史を学び、そして他人と比較してばかりいる人生ではなく、昨日の自分と比較して一生懸命に稽古をしましょう。

講義7.三匹の猿のことわざ
解説 「見ざる、聞かざる、言わざる」は、有名なことわざである。このことわざの意味は、小さい時はまだ善悪の判断ができないため、誘惑に負けないように、「悪いことは見ないこと。悪いことを聞かないこと。悪いことを言わないこと。」と子供をさとした教えである。
 自分が悪いことをしなければ、いつも自分自身が輝いていられる。しかし、自分が悪いことをすれば自分自身の心が汚れる。輝いて暮らすのも、汚れた心で暮らすのも皆、自分自身のことである。「善いことを見て、善いことを聞いて、善いことを語る」を心がけるようにしましょう。

講義8.空手道の楽しさ
解説 時代の流れに対して、武道は科学進歩に進む現代人とはまったく異なる角度から、人間が忘れがちな何かを思い出させる力を持っている。人間力は器の大きさであり、その器は「感動」と「好奇心」が器を満たしていくことになる。感動と言うものは人から与えられるものではなく、自ら探し出すものであり、常に身近にあり、日々目の前にぶらさがっているものである。それに気がつくためには、ワクワクした好奇心が必要になる。
 人間を動かし、人間を変えていくものは難しい理論や理屈ではない。人の思いと感動が人間を動かし、出逢いが人間を変えていく。新たな技術の挑戦を多くの人達と試し合い、より多くの人と楽しみを共有することで感動を作り出すことができる。そして、空手家が持ち続けないといけないことは、宇宙の果てに思い馳せる子供のように、空手道という世界の中にゆっくり身を委ねていくことである。

講義9.自己練習も大切な稽古
解説 イソップ童話に「ウサギとカメ」という話がある。ウサギとカメが「かけっこ」で競争し、どちらが早く目的地に到着するかを競う物語である。ウサギの俊足ならばカメに負けるはずがないが、ウサギはカメをあなどったため昼寝をしてしまい、カメが勝利するという話である。つまり、「己を過信して怠れば失敗する。あきらめずに継続して努力をすれば報われる」という教訓である。
 しかし、それ以上に敗因の原因は、ウサギとカメの意識の違いがある。ウサギはゴールを目指すことよりもカメに勝つことが目的に対し、カメはただ一生懸命に自分のために頂上を目指すことであった。空手道を学ぶ上で、優れた師範と共に学び努力することは技術を向上させる早道であるが、それと同じくらい自分の頂上を定め、誰にも頼らない密度の濃い自己練習を冷静な視点で努力することにより、最も大きな実力を備える。

講義10.自分の目標を実現するために必要なこと。
解説 人は無限の可能性を持っている。そして、諦(あきら)めという先入観を持たなければ、人は何でも大きな目標を実現することが可能である。しかし、自分の夢・目標を実現するには努力が必要であり、それ以上に、人の感情である妬(なた)み、僻(ひが)み、諦(あきら)めの内外の心の障害に立ち向かう勇気が必要となる。
 例えば、もし自分の両足が生まれつき不自由であったとする。運動会の徒競走で自分の足で走ることが夢だった場合、その時、君は諦めてしまうのか。それとも不可能を可能とする努力をするのか。実際にあった少年は自分の手で足を引きずりながら望みを叶えたという例がある。その背景には多くの助けと理解者がいると思うが、多くの人に諦めないことの感動と希望を与えたと言われている。 
 人生という最高の高い山を登り切り絶景の景色を見るためには、自分の大きな見栄や私欲の重い荷物を捨てて、登らなければ登りきれない。空手道で培(つちか)う忍耐の精神と無心の心は、これらの感情に流されない強い力を養わせ、あらゆる分野での成功を収める素質を可能とする。

講義11.言葉より真心が大切
解説 花や植物に愛情を込めて話しかけると、綺麗な花を咲かせたり、長生きしたりする。また、動物も愛情を込めて接すると、例え言葉が通じなくても意志の疎通は可能になると言う。人と人とのコミュニケーションの理解力は、実は言葉によるものが10%程度、残りの90%は心の表現である顔の表情、雰囲気及び想像力により理解されている。人とのコミュニケーションは、言葉に頼らなくても心の対話でコミュニケーションが可能と言うことを示している。つまり、人は言葉以上に、その人の行動を見て多くのことを判断しているのである。
 日本は敗戦後、経済大国として先進国の中では、急激な経済成長を成し遂げ「ジャパン・ミラクル」と驚かれた。島国の日本は、国際言語(英語、フランス語など)を学ぶ機会に恵まれず、国際言語能力が決して高くはなかったが、職人魂の「物作りの質の高さ」と「決して騙すことがない信頼ある取引」により、多くの人々に受け入れられたことも一つと考えられる。確かに、貿易には国際言語の能力は必要であるが、それ以上に物作りを行うものの「心」が最も大切であることを忘れてはいけない。

講義12.「和」のあり方
解説 「和」の道というのは、決してみんなと和やかに仲良くすることだけではない。お互いに全治全能をぶつけ合って、そこから新たな答えを見出して、よりよい道を見つけることが、「和」の本当の意味である。正しいことから目をそらし、お互い譲り合って仲良くしようというのは、決して平和な状態ではない。
 自分の議論を主張して、それでいて意見が合わないからといって仲たがいするのではなく、お互いに歩み寄って、新たなよりよい考え、より良い生きる道を見つけ出す。これが本当の「和」のあり方である。

講義13.急がば回れ!
解説 若き日に活躍していた青年が、ある日突然の事故で1年間活躍の場から退いた。その期間は、多くの本を読み、多くの考えをし、惨めな思いにもなった。しかし、その人があとになって気がついたのは、世間から離れた期間があったおかげで本当の世間が理解できたという。人は誰でも日の当たる時とそうでない時を経験する。人が生きる上で一番大切なことは、うまくいっている順調な時の過ごし方ではなく、不遇の時に今の自分を受けてどう過ごせるかでその人の本当の真価が問われる。
 木にとっても夏の活動的な緑の生い茂った季節よりも冬になって葉の落ちつくした季節は、寂しい季節ではなく最も落ち着いた充実した季節であるという。次の季節に向けて希望と期待を膨らませながら過ごす時期を意味するという。人は行動と反省のバランスが必要である。いつも忙しい生活を送っていると一息ついて、反省することが忘れがちになります。一人で映画を見て熟慮することや、日記を付けて静かにものを考えることは、いかに今を生きている時間が大切か。また、生きている喜びを感じられるようになります。

講義14.忍耐強い人は、人生の楽しみを知る人
解説 空手道が沖縄のみで稽古されていた唐手時代には、現在のような体育運動の理念とは異なり、唐手を教えてもらう場合は多くの技と意味を教えずに、まず一つの同じ形を延々と何年も繰り返す稽古が続く。この稽古法はその間に弟子の素質を見て、脱落しないで稽古を続けた弟子を本物の武道家として迎え入れるためである。それは師範の言う事を素直に聞けず、腹を立てているようでは何をやらせても物にならないからである。誰でも自分の生活や稽古で辛い事と楽な事の選択がある場合は、楽な事を選択したい。無難で楽な生き方は幸せであると考えるからである。しかし、若い人は常に将来の先を見据えて辛い事を選択する気持ちを持てば、人生の楽しさをより多く享受することができる。小学生の頃、冬の寒い朝、布団から出て学校に行く時、布団から起きて学校へ行く子供と学校へ行かずにそのまま寝てしまう子供との違いである。
 普段、飲み水をおいしいと感動をして飲む人は少ない。しかし、真夏の晴れた日に、長距離のマラソンを終えて飲む水は、この上ないおいしさを感じる。アップル社CEOであったスティーブジョブズの晩年は、年収1ドルと癌の苦しみの中で多忙な業務を行い、充実した人生を送っていた。人の幸せはお金の評価や楽な生き方にあるのではなく、より大きな苦しみをより大きな楽しみに変えられる人のことだろう。無難な人生は不幸ではないが、どんな困難に遭っても自分らしい生き方を貫き通す人の心には、決して輝きを失うことのない自由と後悔のない充実感があります。

講義15.自分を大きく成長させるための条件
解説 自分の身に降りかかる困難、災難、失敗をすべて他人のせいにはせず、「自分が悪かった。自分の責任だ」と謙虚に受け止めていくこと。そして、反省して自分で失敗を成功に導くことが必要である。また、何よりも大切なことは、人が見てない陰の行動で大切な人を守れることです。信頼できる自分を作ることが、何よりも他人を信じる力が体の中に宿ります。
 新年になると多くの人が初詣のために神社に御参りに行きますが、社殿の中に鏡がある事に気づく人がいるかもしれない。これは参拝する人自身の姿を映し出すとともに、祈るほどの実現したい願いがあるならば鏡に映し出された人自身が何ができるかを考える場でもあると言う。人は誰でも怠慢にもなるし、誤りを犯すこともあります。しかし、人を傷つけるものが人ならば、反対に助けてくれるものも人以外にはいない。生まれたばかりの赤ちゃんは、母の身分や財産など関係なく、母の愛情を求めて手を差し伸べてくる。母の心は我が子の素直な気持ちに心が打たれ、もし我が子が病気で生死の境になれば自分の命が犠牲になってもわが子の命を守りたい。そんな見返りを求めない自分自身の自然な感情を持っている。また、普段は臆病な人でも、ホームに転落した人を自分の命を顧みずに助け出そうとする勇気ある人もいる。
 何かをやり遂げたい祈りがあるならば、自分勝手な心を捨て他人も自分と同じように貴い存在である事を理解することである。そして、自分の身に起きた良いことや成功したことは、自慢をしたくなるものですが、成功には多くの人の協力や助けがあるものです。成功した時は、自慢よりも先に感謝の心を人に伝えましょう。

講義16.一人立つ精神
解説 人は孤独になることを恐れ、孤独になりたくないから妥協が生まれる。学校で無視されたり、相手にされないといじめられていると思い込み不安になるものである。しかし、孤独は人の愛や真実を学ぶことができ、自分を強くする大切な時間でもある。そういう時は、相手にしてくれないならそれでもいいやと思えば、大した問題ではなくなる。自分が魅力のある人になれるように努力をすればいいのです。
 「徳(とく)は弧(こ)ならず。必ず隣あり。」(徳のある人は、孤立することはない。必ずその徳を慕って多くの友を持つ)という言葉があるように、徳ある人は身分や立場を越えて必ず友を持つことができる。一番大切な事は、自分の夢や希望を失うことがあっても、自分を信じて自分の人格を磨いていけば、いずれ必ず自分を信じてくれる人が集まり、真の友情が生まれていく。空手道の世界にはいじめは存在しない。なぜならば、どんな厳しい環境に立たされても修行者がいじめとして受け止めず、乗り越えて行こうとするからである。

講義17.孫悟空(そんごくう)から空手道を学ぶ
解説 孫悟空は中国の小説「西遊記」の登場人物であり、マンガのキャラクターにも登場する人気ヒーローである。火山島から生まれた石猿は、限りある命にはかなさを感じたことから不老不死を求めて旅に出た。悟空は不老不死と無敵な武術の力を得ていたが、乱暴な粗暴によりお釈迦様に五行山に閉じ込められる。
 その後、多くの苦しむ人々を助けるために、どんな夢も叶う国ガンダーラに向かうことを条件に五行山から抜け出すことができ、三蔵法師の護衛として旅に出発した。多くの無法者から弱い立場の人々を助けながら旅路を続け、三蔵法師の持ち帰った経典により多くの苦しむ人々が笑顔で暮らせるような生活を実現したと言われている。
 「孫悟空」の名の由来は、唐代に実在し、インドまで赴いた僧侶「悟空(空(くう)を悟(さと)る)」の説であり、空手の空(くう)の概念である。悟空はどんな夢も叶える国、遠いガンダーラまで旅をした。悟空が想像していたガンダーラは、ガンダーラまでいけばすべての願いを叶えてくれることだったが、実際は人の生きる道筋を示す教えだけだった。悟空が悟ったのは、自分の夢を叶えるために必要なことは、ガンダーラにあるのではなく全ての人の努力の中にあり、本当に大切なものも身近にあるということではなかっただろうか。空手道修行者は、「何のため」(What is the meaning of life?)の命題を一生をかけて自分なりの答えを見つけてほしい。

講義18.走れメロスについて
解説 走れメロスは、太宰治の短編小説である。人を信じないシラクサのディオニス王は、無実のメロスに死刑宣告を言い渡した。メロスの親友であるセリヌンティウスは、メロスの最後の頼みとして妹の結婚式に出席し戻ってくることを信じ、一時的な身代わりを引き受ける。ディオニス王はメロスが戻らないことを確信し、メロスの代わりにセリヌンティウスを処刑して、人を信じる事の馬鹿らしさを市民に証明しようと考えた。それに対して、処刑されるのを承知の上で友情を守ったメロスが、人の心を信じられない王に信頼することの尊さを悟らせる物語である。
 時として、人はどうしょうもない現実に遭遇し、希望を失い、人生に失望することがある。しかし、自分一人の悩みとして落胆していてはいけない。歴史を見れば真実と愛は常に勝利を収めている。シラクサのディオニス王のように人間不信のために多くの人を処刑している暴君や為政者もいる。一時は、彼らの迫力に圧倒され、無敵にさえ思わせる。しかし、結局は滅びている。人は長い間、人を欺くことは難しい。どんな力も事実を変えることはできず、愛する心は人があるべき道に変えていく。それがゆえに、どこまでも美しく、どこまでも清らかに。希望を失わない誠実な人は何よりも強い。

○一人の日本人の勇気ある決断!(命のビザ)
 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害により、ポーランド等欧州各地から逃れてきた6千人の避難民を救った日本人の外交官がいる。彼は、時に日本のシンドラーと呼ばれ、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝(すぎはら ちうね)である。
 戦後、日本に帰国した杉原千畝は、訓令に背いた責任により、不遇の晩年であった。しかし、後に多くの人の後押しにより名誉は回復され、歴史の評価が一転することになった。戦争の歴史の厳しい極限において、多方面から見た場合に様々な意見がある。しかし、一つ言える事は、彼の行動は誰もができるわけでない人道的精神による勇気ある決断であったと言える。

講義19.信用より信頼されることが大事
解説 私は真面目ということだけで、相手に関心がないようでは武道の意味がない。他人に信頼してもらえるように、努力しなければいけない。それには、空手道の稽古から相手の立場に立って真剣にものを考えたり、稽古以外にも人の話を聞いてあげれば必ず人に信頼される。これはゴマをするといことではない。相手にいやな思いにさせないことが、武道の持つ平和な心であるからである。
 空手道の草創期は、喧嘩に強くなりたい一心で、板を割ったり、レンガの壊す枚数を競い合い、空手道の価値を見出す無意味な修行者も多くいた。物事には道理があり、板を割るなら道具を使えば武道未経験者でもできることである。大道芸人を目指しているならいざ知らず、そんなことに3年も5年も貴重な青春時代を費やしてはいけない。現在の武道の存在価値は、時代の変遷により大きく変わりつつある。例えば、相手を従わせるために、格闘技により肉体的なダメージを負わしても相手の心は変えられない。本当に勝つためには、相手を説得して、相手を納得させられなければ本当に勝ったことにはならない。毎日厳しい練習を行っている拳の先には、君を必要としている人達のために必ず正しい未来を描いてほしい。

講義20.時代を切り開くは若者の力
解説 江上茂は、「空手道 専門家に贈る」の中で、「船越老師(船越義珍)は空手道を完成した武道として位置付けることなく、その完成を後進に委ねている。古を尋ね、他武道をも研究し、立派な武技・武術として真の空手道の樹立を目指して、船越老師の理想を一歩でも半歩でも、前進させることが私たちに課せられた課題である。その課題の実現のために、私の足らない部分は、力強い若い力で更に高いものを打ち出し、実現してもらいたい。」と強い願いと思いが綴(つづ)られている。
 また、歴史を紐解くと、新たな時代は20代の若者が切り開いている。フランス革命の時代に生きたナポレオンは、24歳の若さでフランス軍の指揮官として市民革命の実現に大きな功績を残し、幕末時代の坂本龍馬は28歳に勝海舟の弟子となり、日本の将来を世界に向けさせた。そして、日本が近代化に向かう時代、20代半ばで農民のような弱い立場の人たちのために生きることを誓った田中正造は、環境問題解決の先駆けとなる人道的行動の先駆者となっている。伝統を継承し、それを新しい形に変えて次世代に伝えていくことができる者は、駆け引きのない若者の純粋な熱い情熱と力である。松濤會空手の世界も例外なく、これから先の時代を見据え、新たなる未来を創造していくことができる若者の若き力で新たな時代は動いていく。

講義21.背中で学ぶ
解説 武道の世界は、師は沈黙によって弟子を指導する。技は頭で理解するものではなく、体で理解するものであるからである。数少ない師の教えを頼りに、自分で自問自答しながら何度も繰り返すことで技の意味を理解ができる。師の思いと背中を見ながら、肌感覚で感じてこそ、茶番でない確かな説得力が生まれる。
 また、剛毅木訥(ごうきぼくとつ)は仁に近しと言う言葉がある。これは意志が強く、素朴で無口な飾り気のない人は、道徳の理想とする素晴らしい人物に近いと言う意味である。老子も「善なる者は弁ぜず」(正義の人はあまり多くをしゃべらない)と言う。人生の未熟な男女の若者が損得勘定なしに懸命に稽古に明け暮れ、最強の力とは何かを追い求める。その苦悩の中、真冬の寒風に名誉や自分のためでなく、ただ己を信じて道場で一人孤独に立つ青年の姿は本当に愛しく美しい。

講義22.技術よりも心術
解説 人生最大の敵は自分自身です。自分に打ち勝って初めて人生を切り開くことができるのです。世界大会に出場できなければ、稽古は無駄だと思いますか。それは違います。自分の精神を磨くことも武道の重要な一面なのです。人が外圧から傷みを伴うものには、二つある。一つ目は肉体的な傷み、二つ目は心の傷みである。生きるとは、この二つの傷みから身を守らなければならない。肉体的痛みは、格闘技術で身を守る事ができるが、心の痛みは人間力を高めなければ、格闘技術では心を守る事ができない。
 アメリカの高校生スポーツ界(野球、バスケットボールなど)では、高校生の教育的精神を重視して勝つことだけを重視せず、健康や友情などを育むためにチャンピオン大会は州大会の決勝までで、全国大会は実施しないという。但し、世界大会でトップを目指すことがいけないということでもありません。若者であれば頂上を目指して技を磨くべきです。日本の主食の米の稲の成長は、真っ直ぐに太陽と空を目指して育つ。そして、最後に米の実りの秋には、感謝の心を表わすように首を垂れる。これが青年らしい生き方ではないだろうか。しかし、人生で最も頼りになる力は「格闘技術」よりも熱い情熱と思いによる「心術」が最も重要であるという現実があることを理解する必要があります。

講義23.群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)
解説 空手道は歴史的に無法者から自分の大切なものを守るために、相手を倒すための武術である。空手道の技にルールや国境などあるはずがない。しかし、武道家の多くは技のあり方で争うことがある。
 昔の先人は「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」ということわざを残している。これは、ある目が見えない盲人たちが、像について説明し合う。盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、その感想について語り合う。しかし触った部位により感想が異なり、それぞれ自分が正しいと主張して対立が深まる。しかし、何らかの理由でそれが同じ物の別の部分であると気づき、対立が解消されるという物語である。
 空手道も指導を受けた先生、今までの生活環境などで空手道のイメージが、それぞれ違う場合があります。しかし、それをお互い批判し合ってはいけません。空手道も人によっては、「投げて倒すもの」「相手を掴まない」など全く反対の意見を言う人もいるかもしれません。何らかの理由でそれが同じ物であるが、別の角度で説明しているに過ぎない。師範、組織及び自分自身のプライドにとらわれることなく、相手の意見に耳を傾ける余裕を持ち、別の部分であるとお互い気づき、謙虚に技を高め合い、空手道の真の姿を追及してください。日本には「木を見て森を見ず」 と同様の意味の別のことわざがあります。 また、「物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解してすべて理解したと錯覚してしまう」というのは真理を追究する武道家は自制しなければいけない。

講義24.道、人を弘(ひろむ)に非(あら)ず
解説 空手道の「道」は人に話しかけ人を育てくれるわけではない。自分自身が人として正しい道は何かを常に問いかけ、考えない限り、人の生きるべき本当の道は見えてこない。人は本来、身勝手で感情に流されやすい弱い性分である。多くの人は、私一人努力しても何も変わらないと目の前にある課題の挑戦を諦め、自分に甘え、自分の周りの責任にして自分を慰めている。しかし、それでは何も変わらない。 
 子供の頃、多くの子供たちはヒーローになりたいと思っていた。しかし、人として正しい行動をとることは難しい。正しい行動は風当りが強く、大人になるに従い、波風立たないように生きるようになってしまう。ある時、一人のヒーローに出会った。もし、誰も理想とすべき人物がこの世に存在しないならば、私がその理想とする人物になればいいじゃないか。人に裏切られることがあっても俺は絶対に人を信じ抜く、志士仁人(ししじんじん)の思いで生きている無名のヒーローだった。

講義25.勝負の精神
解説 空手道の技術は精神が引き伸ばすが、技術は精神を引き伸ばすことはできない。そこで、精神をどう養うかが課題になる。その課題を解決するためには、一つの方法として生死を駆けた勝負の精神が心の中に宿っていなければならない。武道というものは勝負に勝つことが目的ではないが、初心者の段階から武道の真髄に接近するための努力を怠ってはいけない。実体験がなく頭の中の観念論だけでは単なるスローガンになってしまいます。
 勝負に勝つことを目指しながら苦しい稽古を積み重ね、その力を己の物とした時、勝負自体の虚しさを自覚できます。そして、今度は逆に誰もが勝負の世界から離れていくことになるでしょう。その心の変化に達した武道家は、何事に対しても「誠実な心」で立ち向かう力の強さを認識し、世の中の移り変わりを冷静な視点で見る心の眼を得ることができます。単に、形をたくさん覚え、演武の上手さだけを求める稽古だけでは、勝負に勝つ保証は得られない。また、そのような稽古をいくら繰り返しても精神を養う稽古にはつながらないと言えます。

講義26.リーダーの条件
解説 青年が空手部の主将やクラブのリーダーなどの大任を配する時、多くの若者は希望と責任の重さで不安を持つことになる。「本当に自分にできるのだろうか。」と考えることだろう。
 昭和を代表する有名なロック・シンガーに矢沢永吉氏がいる。自身の著書に「成りあがり」という本があり、この本によると彼は広島出身で1945年8月6日の広島原爆の被ばくで実の母、兄及び義理の姉を亡くし、実の父も小学二年で原爆の後遺症で亡くしている。後妻の母は三歳で蒸発し、親戚中をたらい回しにされ、おばあちゃんの家で貧しい幼少期を過ごしている。それでも「誰よりもビッグになってやる!」と懸命に努力を重ねてきた人である。昭和の時代は今の令和の時代の子供たちと違い、引きこもりや不登校はなかった。そんなことで悩むよりも、多くの子供たちは生きる事だけで精一杯、ご飯が普通に食べられるだけで有難かったとされる時代である。
 矢沢永吉の興味深いエピソードがある。矢沢氏のマネージャーがコンサートの前日に一流ホテルのスイートルームの予約ができず、格安のビジネスホテルの宿泊を矢沢氏に伝えた時のことである。その時の矢沢氏は、「俺は構わないんだけれど、矢沢はなんて言うかなあ。」と不可思議な回答をした。矢沢氏は、本当の自分がありながらも、自分の欲望ではなくファンに夢と憧れを与える立場のプロ意識を持つエンターテイナーとして、矢沢永吉という人物像はどうあるべきかを常に考えていたと言える。矢沢氏は自分とは別の存在を演じることを心がけ、苦悩と闘いながらも完全な矢沢永吉であり続けようとしていたのではないだろうか。
 どの分野のリーダーも一番大切なことは、使命があれば力なき自分の力を本来あるべきリーダー像に近付く努力をする。その心がけの結果が、自分の成長と共に組織の発展につながっている。

講義27.精進こそ、空手道
解説 俳優の高倉健は、「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし(酒井雄哉)」(私の人生は、精進と我慢の生涯であることが誉である)という言葉を座右の銘として生きてきたと言われている。人はうまくいかないことがあると、「自分には才能がない」と諦めてしまうが、最近の才能の研究では学問、芸術、スポーツでも世界レベルに達している人は、1万時間(約毎日3時間で10年)の練習や努力を費やしていると言われている(1万時間の壁)。
 空手道の稽古は、合理的で安楽の道だけでは意味がない。自分の人生をより輝かしいものとするためには、普段の厳しい稽古の中から自分自身で空手道の楽しさを見出さなければいけない。精進の心の大切さを理解してこそ、自分の人生を成功に導く唯一の道である。その反対に我がままと怠慢は空手道の魂を失うだけでなく、自分自身を堕落させてしまうだろう。男は周りに心を配ってただ微笑む。不安と我慢の中で背中を泣かせて、ただ耐えている。行先など分からない。しかし、武道家たちは懸命に努力する先には必ず栄光があることだけを信じている。

講義28.正義の女神(ギリシア神話の女神テミス)
解説 最高裁判所、中央大学多摩キャンパス内などテミス像が存在する。剣と天秤を持つ正義の女神の姿は、司法・裁判の公正さを表す象徴・シンボルとして、古来より司法関係機関に飾る彫刻や塑像、絵画の題材として扱われてきた。弁護士バッジにも女神の天秤が描かれている。
 彼女が手に持つ天秤は正邪を測る「正義」を、剣は「力」を象徴し、「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」に過ぎず、正義と力が法の両輪であることを表している。目隠しは彼女が前に立つ者の顔を見ないことを示し、法は貧富や権力の有無に関わらず、万人に等しく適用される「法の下の平等」の法理念を表す。1669年のパンセの一文「力なき正義は無力、正義なき力は暴力」の引用をするならば、私たち武道家が持つ拳は「力」を意味し、精神は「仁(慈悲、愛)」を象徴し、「拳なき力は無力、仁なき拳は暴力」と言える。

講義29.鎖につながれた象
解説 小さい時から杭につながれている力強い象は逃げない。いや、できないと信じこんでいるからである。生まれたばかりの子供の像にとっては、杭がとても大きく逃げることは不可能に思えたからである。大人になった像にとっては杭など簡単に壊して逃げられるはずであるが、小さい時に感じた「自分には無理だ!」という記憶がこびりついているからである。そして、小さい頃の記憶が二度と自分の力を試してみようという気持ちを起こさせなかった。人も無数の鎖につながれたままで生きている。遠い過去、たった一度だけ子供の頃に挫折しただけなのに、「自分にはできない」と思い込みながら生きている。自分が逃げられないのは鎖が頑丈だからでも、杭が大きいからでもなく、自分自身の思い込みと言う自分の鎖に縛られているからである。
 空手道の世界も同じである。人から一度、これは「ダメだ」と言われただけで、その意味を真剣に考えずに若い頃に言われた事だけで新たな挑戦をしようとはしない。何度怒られても失敗してもいいではないか。自分が信じる空手の道なら堂々と挑戦してみることです。空手道でやってはいけないことは、人を傷つけること以外は何もない。損得勘定なしに何度も挫折して行き着いた納得する人生ならば、真っ直の挫折のない人生には得られない財産を得るに違いない。その挫折の傷みは、同じ悩みを持つ同志に勇気と力を与えるでしょう。そして、もし人に言われた納得できない事が、後で正しいと気付いたならば、その時には何とも言えない感動と感謝に変わる。人は未熟がゆえに、直ぐに何でも理解なんてできるはずがない。武道教育者と言えどもすべてが正しいわけではない。そして、その反省から更に真剣に稽古に励むことができるでしょう。
 唐手時代の空手道の型の読み方は、中国から伝来しているために全て「音読み」(平安:ピンアン)であった。船越義珍は日本の伝統武道に生まれ変わらせるために、漢字に全てを変えている。その中の型の名の中に、「慈恩(ジオン)」という型の名がある。慈恩とは人が生きる上で最も大切にしなければならない「慈悲と恩」の意味が隠されている。空手道の本当の力は、相手を想う「慈悲」、人に感謝する「恩」があって、人として素晴らしい人生を歩むことができる。空手道の稽古は、実は人生の一つの修行であり、誰でも豊かな後悔のない人生を歩むための手法でもある。

講義30.金城哲夫(脚本家)のヒーロー像について
解説 沖縄出身の金城哲夫は、初めてウルトラマンを生み出した脚本家である。ウルトラマンと言えば格闘技は喧嘩と暴力を目的とした悪名高いイメージが強い時代に、弱い者を助け、強い者に立ち向かう子供たちのヒーローとして格闘技というもののイメージを一新させ、強い者に憧れを抱かせた子供向けテレビ番組の人気キャラクターである。
 ウルトラマンは金城哲夫が幼少期に沖縄戦の際に、防空壕の中で米兵に救出される体験をヒントに作られている。宇宙人であるウルトラマンは自分の星を守るために地球に逃げる侵略者(怪獣)を追っている最中に、地球人の命を事故で奪ってしまう出来事から始まる。その自分の犯した過ちの責任を果たすため、その代わりに自分の命を亡くなった地球人に与えて、新たに地球人がウルトラマンとして地球を防衛するというシナリオである。ウルトラマンと言えば悪を許せない事を理由に、宇宙から地球に来て戦うイメージが強いが、そのようなヒーローは登場しない。ウルトラマンも自分の国への侵略者から自分の国と大切な人を守るために戦い、その結果として予期しなかった自分の新たな過ちを犯し、被害者への償いのために自分の命をあげる事になったのが本当の理由である。
 それは金城哲夫が終戦により防空壕で米兵に救出された際の兵隊の心持ちは、自国を守るために戦いながら他国の罪もない女性や子供たちまで巻き沿いにしてしまった戦争の大きな傷痕に、米兵のウルトラマンのような心の変化を感じたのだろうか。ウルトラマンの中に重ねた自身の思いである。また、撮影では、必ず逃げ惑う多くの市民が写し出されている。最終回では、ウルトラマンから自分の国はその国の人が守る事に価値があると語られ、これからの地球を守るのは地球人自身であると説明している。少年金城哲夫は、地球と沖縄を重ね合わせて誰かに頼るだけでなく、自分の力で故郷(沖縄)のために何か役に立ちたいという純粋な少年時代の強い思いが作り出した虚像のヒーローと言える。ヒーローは誰の心にも必ず存在する。しかし、それは誰もが特別の存在ではない。いつの日か背負った運命と自分の信念で闘い、格好悪くても自分の運命から逃げず、過ちと正義感の狭間で他人のために常に悩み苦しんで生きている人こそ、本当のヒーローと呼べるだろう。人は自分が苦しんだ事のある経験があれば、同じ事で悩む人の苦しみを理解し心の支えになってあげる事ができる。

講義31.不動心
解説 運慶作の東大寺金剛力士像が烈火の怒りのような姿は、邪悪が入る寸断の隙もないゆるぎない不動心を表現している。それは動かざる心でない、何事にも動じない確固たる平常心を意味している。
 金剛力士像の別名は仁王像であり、仁王像の不動心は母親が子供に危険が迫る際に子を守ろうとする母の姿勢に近いものがある。その表情は普段穏やかで優しい母の姿とは一変した姿に変わる。それが愛を意味する「仁」の王像なのかもしれない。平常心とは穏やかな心の状態ではない。怒りの感情を露わにしても大切な物を守ろうとする動じない心。怒りの感情は、決して醜い姿ではない。その心は正義の心でもある。

講義32.慎しみと謙譲の心は、空手道の美徳
解説 一寸の虫にも五分の魂のある世の中、進めば進むほど口を慎まないと四方に敵を控える。昔から高き樹に風は当たる。けれども柳はよく風を受け流す。
 本当に強くても肩肘を張り、強そうに振舞う空手家ほど見っともない人はいない。技を練り自分を高めれば高めるほど、人への慎しみと謙譲の心も高めることが必要である。空手道の修行者は、実は自分の弱さを知るための修行だということを忘れないことである。「自分で自分の弱さを知っている人は、どんな時にも平静でいられる。本当の勇気は、本当の弱虫でなければ持つことはできない。」とは船越義珍の言われた言葉です。
 日頃、誰もが見逃しがちなことこそ、実は一番大切なものです。技も教えも常に原点に帰る謙虚さこそ、すべての空手道の稽古生が持ち続けなければならない最も大切な精神です。

講義33.どんぐりと山猫(宮沢 賢治 (著))について
解説 山猫の裁判官からおかしな葉書が少年の一郎のもとに届きました。内容は明日の裁判にお越しくださいということでした。
 翌朝、少年の一郎は山猫が行う予定の裁判に招待されたために山に向かいます。
 黄金色に輝くどんぐり達の裁判所が始まりました。山猫が裁判長です。どんぐりたちは、誰が一番偉いのかを決めるために3日間、揉めていました。頭が尖っているのが一番偉い、いやいや、一番大きいのが一番偉い、一番丸いのが一番偉いと、誰もが自分が一番えらいと裁判長に訴えています。
 山猫裁判長が困ってしまい、少年の一郎に誰が一番偉いかを決めるための方法を求めたので、一郎は「この中で、一番馬鹿で、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、一番偉いです」と答えました。それを山猫が伝えると、どんぐり達は黙って揉め事は止めました。
 少年の一郎は山猫裁判長からお礼に一升分の金色のどんぐりを貰いました。家に帰るとそれは普通の茶色のどんぐりになっていました。それを多くの友達に分けて仲良く暮らすというお話です。

 今回の宮澤賢治の童話で伝えたいことは、少年の一郎はどんぐりと同じようにお友達と誰が一番偉いのかを競い合い、揉めていました。それを解決する方法はお互いの自己主張ではなく、「いちばんダメな人が、いちばん良い」という、逆に自分を仲間よりも謙虚に一歩引くことができる自己犠牲の精神を持たない人は仲間同士の争いを鎮めることはできないことを教えています。
 いつも自分が一番偉いなどと学歴、強さ、財産及び職業の立場などを勝手に自分の尺度で判断している人は、やはり社会のなかでは煙たがれ、誰からも嫌われるものです。自分の我が儘を強く戒めながら、周りを差別したり、見下したりせず、他者に手を差し伸べたり、自分を飾らず、自分が一番ダメな人間だとしておく方が本当の利他の精神を自分で気持ちを保つことが可能となり、逆に多くの人から尊敬され好かれることにもなることを説いています。

第2章 上級編 −空手道の奥義を学ぶ−

1.上級者向け技術について

講義1.「心眼(しんがん)を以(も)って見る」とは何か。
解説 修練は本来、人為的な努力である。しかしこの努力を重ねることになって、目や手足という個々の末端部分が人工的に動くのではなく、心身が一致した総合的な感覚で自然に動くことができるようになるのである。

講義2.浮き身の技術とは何か。
解説 攻防一体を可能とする正中線の理(身体意識と使用法の修得)と技術の間(タイミング)を確実にする「居着かぬ足捌き」を体得し、一体化する技法をいう。この浮き身の技術の修練には腰で歩き、腰で突き、摺り足及び力まない事が必要である。この浮き身の技術が武道空手の真髄と言われている。

講義3.「無心(むしん)」とは何か。
解説 老子が説く「無」とは、単に「何もない」という意味ではなく、自分自身に囚われない事にあります。自我を忘れ、「何もない、だからこそあらゆる変化に応じてすべてを生ずることができる」という積極的な精神を意味している。
 私たちは自分中心に稽古をしているので、「魚に水から出よ」というくらい自我を捨てて無心になることは難しい。では、どうしたら誰でも無心に至れるのか。自我を失くせば抜け殻になってしまうのではないかと思うかもしれない。しかし、日々の稽古の中で相手の立場に立つ事や後進を育てようという利他心の精神を育むことで、自我を忘れて唯一自分を大局的な立場に置き換えて無心の技を可能にできる。無心を会得したいならば、他人の立場に立ち、他人のために行動することである。そうすれば、結果的に自分の思い通りの人生が開けている。

講義4.「無為(むい)を為(な)す」とは何か。
解説 「人工によって為すことなく自然の力によって為すべきである」という意味であり、人間の小さな技巧を排し、自然の大いなる力を利用して物事をなすことである。自然の大いなる働きに和せば、最小の力で最大の効果を発揮することができる。
 技術的にいえば、それは柔力によって目的を達成することである。「無為」が運動体となって現れるとき、その力は柔力となって具現化する。
 
講義5.「柔拳(じゅうけん)」思想とは何か。
解説 老子は、まず気を集中し心身を柔らかく保って、あたかも「赤ん坊」のようであれと説く。人は生まれたときは柔らかく、死ぬときは固い。草木も同じである。したがって「柔弱」は成長と変化が可能な「生の徒」であり、「堅強」は固定したままでそれ以上変化を生じることのできない「死の徒」であると説く。
 動くときは「水のようであれ」と教えている。天下に水より柔弱なものはない。しかし、この天下の「至柔」(最高の柔)が最も堅固な岩石をもころがし、あるいは貫き、そしていかなる隙間にも空間に応じてあらゆる変化を身に現すことができる。また、氷は固定された形(自我)のために器が限られるが、水は器を選ぶことはない。この無常(誰もが死に向かって留まることない世界)でこだわりがない水のような生き方は、人として最も輝ける調和と自然な状態が可能となる。しかし、氷のような固定された形(自我)でも火(心の温かさ)に触れれば、水に変じる事ができる。

講義6.「柔(じゅう)よく剛(ごう)を制(せい)す」の由来と本来の意味
解説 出典は兵書古典の一つ三略、三略が説いているのは、柔的なものが常に剛的なものより優れているという意味ではなく、「柔もまた剛を制することができる」という意味である。「純柔は弱体化し、純剛は滅亡する。ゆえに剛と柔はお互いに補完し合って初めて真に強い」という。例えば、弾力を利用して矢を発射させる弓は、柔的な力が剛的な威力を発揮する代表的な武器である。中国武術の優れた技法には、外側に常に柔的なものを現しつつも内側には崩し難い剛的な力を秘めている。

講義7.孫子の勢節について
解説 激流が石をも漂わす力が勢という。猛獣が一撃で獲物の急所を打ち砕く力を節という。戦いに優れた者は、その勢は険しく、その節は短い。要するに勢(勢い)とはエネルギーの集積であり、節(決め)とはエネルギーの質的な集中であるということができる。
 「能ある鷹」は、たゆまぬ努力や恵まれた才能によって、「実」を備える。そして鷹は、「爪を隠す」という「正」の状態を持って普段の生活を過ごしている。しかし、鷹にはやり遂げないとならない戦いがあるのであって、その思いを常々心に「勢」として鬱積している。そして、その時が来た時、鷹は自分の爪を出す。但し、孫子の理論は大切な人を守るために使用する時に有効であるが、自分よがりの生半可な理由で孫子の理論を扱うと、自分の人生をマイナスにすることになるので、ゆめゆめ注意すべきである。

講義8.形と姿勢について
解説 空手道の初心者は、正確な形(かたち)と姿勢を基本として技の習得を目指し、技の基盤をしっかり習得した上で高段者になってから形よりもその状況に適した流れるような技の修得を目指す。そして、最後に体裁きだけで触らないうちに、瞬間で倒すという段階的な稽古法を行っている。形の中には空手の根幹となる軸になる技術があるため、この形をしっかり時間をかけて学ぶことが、初心者が上達する早道である。そして、高段者になってからその軸となる形を崩さず、相手と自然に流れるような技の習得を行うなどの段階的な稽古を行うことが上級者の理想的な稽古法である。
 
講義9.剛柔一体と柔拳
解説 剛法は主に突く、蹴る等の動作を言い、柔法は投げる、小手返し等の動作を言う。剛法は直線系の動きに対し、柔法は円系の動きを取り入れ、衝撃を和らげながら相手を制する方法を取っている。この剛法と柔法を合理的に組み合わせることを剛柔一体という。それに対し、柔拳はそれを更に発展させ、柔法の円系の動きだけでなく、剛法の直線系の突きにも力を抜いて、呼吸法(又は気の意識)を取り入れる手法を言う。

講義10.向心力について
解説 向心力は、物体を曲線軌道で動かす力のことである。野球のピッチャーがボールを投げる際に、肩や腕に力を入れずに投げるピッチングフォームに例えられる。この力は手足の体のバランスと腰の動きから回転させた腕の張っている状態から生み出されている。この向心力を応用して、受け技、攻撃技に転用した際には、小さな力で大きな結果を生み出す技が可能になる。「荘子」は技術だけに頼ることの限界を示し、天然自然の中に自己の心身が一如となったとき、初めて技術も自在に使いこなすことができると説いている。

講義11.「澄み切りの心」とは何か。
解説 澄み切った心の状態(すべて受け入れる謙虚な心)であり、コマに例えて表現するとコマが激しく回転している時も中心軸は少しも動揺していない状態を意味する。体が静止している時でも心は静止せず、俊敏に行動している時にも心は平静に保つ修練を行うと、傲慢と濁りの無い広い心で大局的に物事を感受・決断することが可能となる。この観の目(平静の心)を身につければ、多くの決断を求められる現代社会において、自分の勝敗よりも社会全体の有益な決断を優先することができる能力を備え、武道以外の各界の指導者として不可欠な条件を備える。
 今の激動の時代に、この自然体・平常心・和といった優れた文化を持つ日本の世界への影響力は大きい。アインシュタインは、「アインシュタインの予言」の著書の中で、「将来、世界はもはや救い難い激動の時代を迎えるだろう。その時、自然体・平常心・和といった優れた文化を持つ日本が世界の混乱を救うことになるだろう。」と述べられている。また、世界の先進国の発展の影に、途上国の多くの国が未だに争いを繰り返している国も多い。そのような状況に対して、日本の精神である武道は、平常心から生み出される調和の精神によって、多くの人の人生を良き方向に変える可能性を持っている。

講義12.空手の理(理合)
解説 空手の「理」とは技の上達のための理論ではなく、技の確かなイメージを目指して技を修得する手法である。
 例えば、空手の突き技の確かなイメージは、野球経験者であれば投手として投げる力まないピッチングフォームから本物を目指し、稽古を積み重ね技の真実に近づけていく方法である。理屈はその後に造られた例え話のようなものなので、内容を伝えるにしても正しく伝わらないことが多い。人はそれに似た経験や記憶が心の奥底にあるものである。この記憶を呼び起こすことが指導者の技量であり、自らの空手道の研究心になる。
 宮本武蔵は「正しい技」は初めからあるもので、教えられるものではなく、「想い出すもの」と説いている。稽古は練磨であり、「理」(確かなイメージ)を基に、それを確かなものにすべく錬り磨くのが真の稽古である。

講義13.ハード・パワーからソフト・パワーへ
解説 空手道の闘争において、相手を確実に倒すためには、初心者の力任せに突き・受け(ハード・パワー)から上級者の無駄のない体の動かし方、しなやかな力まない突き・受け(ソフト・パワー)へ技を発展させることの重要性を空手上級者であれば誰もが感覚で理解している。つまり、「剛」は正確な技の基本を学び、「柔」は自然な動きを学べる。この「剛」から「柔」への段階的な稽古を経験すれば、真の強さを会得することができる。
 同じように、米国ハーバード大学教授ジョセフ・ナイは、人間関係及び国際協調の中でも、武力・経済力などの力(ハード・パワー)から文化的価値観による信頼性や友情によるソフト・パワーへの信頼関係の構築がより一層強固な力を発揮していくと言う。技も心も剛から柔への方向性の探求から真の武道の意味が開かれていく。但し、剛を捨てることではない。剛を兼ね備えながら柔に変化する事である。

講義14.一生青春の武道家
解説 武道を志す者に引退という言葉はない。死ぬまでが現役である。稽古から離れてしまえば、たとえ道を極めた人間でも名人、達人たりえない。常に未来を生きている私たちは、過去の栄光に浸っている暇はない。何歳になろうが目標と希望を持ち続け、バカにされ笑われることがあっても前に進まなければいけない。
 若者の輝きは肉体的な若さだけでなく、「自分の夢を実現したい。また、美しくありたい」という強い思いの中の輝きである。若くても夢や美しさを諦めてしまった人は老人のように見えてしまうものである。最も大切なことは、「諦めない」という思いである。確かに、肉体には限りがあるが、技と心には限りはない。その無限の技の根本はやる気の心である。「やる気」の心は、肉体と違い年齢と共に衰えていくものではない。努力は肉体を動かし、工夫という新たな技を生み出していく。それは、生半可なことではない。しかし、目標を定め邁進し続ける限り、毎日がその人は一生青春であり、一番かっこいい老人である。

講義15.技の極意について
解説 技に絶対といった極意はない。技の優劣はその時々の相対的なものであり、技のその時の事情に応じて千変万化するものである。極意の真の意味は、「意識の極み(無意識)」であり、何気なく無意識に技を出すことができれば、居着きも、力みもない技が可能になるということである。人は理性が先行すると、過去の失敗・未来のプレッシャーにより、悪い予感の妄想で戦わずして自分で自滅する場合が多い。それを断ち切る方法が、無意識の心の状態(無心)である。相手に勝つために策や法を理性的に考えて動くのではなく、一瞬一瞬の働く感性(永遠の現在)に任せることである。感性を磨けば、多少の技術の差があっても「感性」の有無により立場を有利に運ぶことができる。
 また、武道の技術の生命はその理合と共に「気の察知」であり「間」である。究極のところは修羅場の平常心こそ武道の極意である。日常生活においても、人と人との争いの原因は排他性(相手の権利を奪い、自分を有利に運ぶ)にある。その争いに策や法で挑んだ場合の勝敗は、多勢や能力の差で勝敗は決まる。それが人をいじめる場合に、群れる所以と言える。その状況を改善させる場合には、策や法を使用しないことであり、誠実な心(無心)でその状況に惑わされることなく、正しい道理に従い、強い精神で普段と変わらない日々を送ることである。
 人は自ら意識する・しないに関わらず、言葉を交わさなくても相手の意識を悟る能力を誰もが持っている。しかし、自らが意識しすぎると、相手の意識を悟ることができなくなり、自らの意識を相手に悟られることになる。こうした能力は超能力ではなく、野生動物にとって当たり前である。戦略や理性の能力をはるかに上回る能力である。言葉を交わさなくても相手に自らの意図を知られずに、かつ相手の意図を正確に理解できる方法が「無心」である。何事も人に意図を察知されないようにするためには、まず自分に知られないようにすることである。

講義16.強くなるんでなしに、うんと弱くなれ!
解説 船越義珍は、同門の弟子に「強くなるんでなしに、うんと弱くなって貰(もら)いたい」と指導された。すると、中には「先生!それはどうも分かりません。私たちは弱いから強くなるために稽古をしているんです。」と口を尖らせる者もいた。これに対して先生は「それに対する答えは、諸君自らの手で解決してほしい。いつか、必ずああそうかと分かる時が来る」と諭されている。
 船越義珍は、最強の格闘家を目指すならば、ただの乱暴者ではなく、「人の痛みを理解することができる。優しい人になりなさい」という意味だったのではないだろうか。一見矛盾するように思えるが、一番強い男ならばもっとも弱い人の気持ちを理解できる心の優しい人でもあるべきだと思う。ただし、やさしいと言っても自分の弱さを隠すためのものではなく、道端に咲いている草花を愛する繊細な心を持ちながら、誰かのために虎のような猛獣をも倒す実力ある空手家である。

講義17.浦島太郎と桃太郎どちらが好きか?
解説 宇宙飛行士選抜最終試験に出題された問題である。宇宙飛行士の最終候補生に選ばれるのは、浦島太郎を選んだ人である。最終選考まで残る人に高い知性と論理性があるのは十分に証明されているが、さらに宇宙飛行士には理不尽の現状に耐えうる情緒性が求められるからである。
 浦島太郎と桃太郎の二つの物語はどちらも人のために役立ちたいというテーマは同じであるが、浦島太郎の物語にはいじめられているカメを助け、酸素ボンベなしに海に潜り、竜宮城で遊んで帰って来たらおじいさんという不合理と理不尽な内容で満ち溢れている。対照的に桃太郎は戦いの前に緻密な分析をし、サルとキジとイヌを従え鬼退治に行くという合理的な物語である。しかし、現実はすべてが理に適っているわけではなく、浦島太郎のように理不尽と不合理中でも人は生きて行かなければならない。
 人は「知識・情緒・意志」のバランスがとても重要である。現代の子供たちは受験勉強があまりにも大変なために、長時間勉強をし続ける忍耐力は向上するが、対人関係の中の「情緒・意志」を伸ばすための機会が段々に減ってきている。人生は儚さにも耐えうる想定外に強い資質、情緒的余裕が求められる。この能力を伸ばすのは幼少期から遊びや部活動などの経験からリーダーシップ及び仲間を大切にする心から養うことができる。ストレスを外側へ発散しようとする志向を避け、武道のように心の内側に向かう耐性を獲得することも同時に必要である。

講義18.内観の稽古について
解説 空手道の稽古は、自分自身と闘う。また、自分自身を見つめることである。この事を内観の稽古という。空手道の上級者は、内観の稽古を意識しなくてはいけない。ただ感情に任せて、相手を倒すことに憤る稽古や数多くの追突きを数時間行う厳しい稽古の中で、何も考えずに集中するだけの自己満足の稽古ではなく、自分の心の状態を冷静に見つめる稽古を行うことが必要である。また、組手を行う場合には、相手に恐れて緊張している自分の状態を冷静に観察する。その自分の緊張状態を「どうすれば克服できるのか」、それを冷静な視点で考えることでその課題を解決することができる。その心の状態を避けて、自分自身をごまかしているようでは、物事の真実は一生分からない。
 人は人との関わりの中で怒りの感情にとらわれて、相手をやり込めたいという感情にとらわれてしまうことがあります。そのような荒れている感情では、周りの人の真の姿を目に写しだすことはできない。また、その怒りの盲目の状態では目を閉じて道路で人生という車を運転するようなものであり、自分も他人も共に危険にさらすことにもなります。武道家は常に相手を思いやり、例え面倒を見た人に心ない厳しい批評を耳にすることがあっても、怒りの感情で自分を焼け焦がすことなく、その相手の人生を開かせるためにじっと待つ強い心を奮い立たせる必要があります。しかし、現実には普通の人の心ではそのような気持ちになることは難しい。その荒れた心をその乗り越えて穏やかにするには、大切な同志であるという想いに立ち返り、人をどこまでも信じる心を持ち続けることです。その信頼の心を持つことで、相手のありのままの姿が冷静に感じることができる。そこから、「お互いがどのように生きるべきか。そして、何をしなければならないか。」という大切な何かが分かり、お互いの行き詰まった関係が改善されていくことができる。その人の中にはいつの日か自分に代わり、松濤會を背負って立派な役目を果たす人材に育つかもしれない。その日まで見守ることが私たちの役目でもある。
 多くの若者は、自分探しの旅に海外へ独りで旅に出る。しかし、自分を見つけて帰ってきたという話を聞いたことがない。自分はどこか遠くの外にいるのではなく、今ここにいる自分が自分なのである。「人にしてもらった事。人に返した事。人に迷惑をかけた事」、この3つを冷静な視点で自分自身に問いかけた時、反省と感謝の意味を自分が知ることができる。もし、自分自身が多くの人に支えられ生きていることを理解できたならば、学校の先生や先輩への恩返し、親孝行など今自分がしなくてはいけないことが分かるはずである。恩返しとは、その人の立場になって願いを自分の心に感じ取ること。そして、人の役に立つ立派な人になる事こそ、亡き恩師が喜ぶ最高の恩返しの方法である。これが本当の自分探しであり、「自分とは何か?」を問うならば、この世に生まれて何もできなかった自分が、友人、家族など自分の周りのおかげで生きてこれた今そこにいる自分が自分である事を知ることである。
 
講義19.武道の素晴らしさについて
解説 花の美しさは、新しい花が咲くから美しい。美しさの感性は、新しい生命の息吹から感じられている。山の谷川の水が美しいのも、常に新しい水が流れていくから美しさを感じることができる。その谷川に落花が水に落ちても流れるがごとく、水もとどまらず花もとどまることがない。大自然も生命もたとえ使命を終えることがあっても、とどまる事がないから命は美しい。武道も同じである。私たちも友と喜びを分かち合い、ライバルと自分を比べて悔しさを感じたり、友との別れの時は涙を流したりと新しい気持ちの変化が表れてきます。さらに、稽古を終えて見る夕焼けは茜色に染まる空と共に、私たちを暖かく朱く染めて多くの青春の忘れ得ぬ思い出を演出している。
 道場を飛び出して野原、浜辺などの野外でひたすら稽古に励む時、私たちは道場では決して味わえない日本の四季の彩を感じながら稽古を行うことができる。裸足で土の感触を確かめながら、そよ風や夕日が落ちる中で自然と一体となって稽古に励む時、生きている実感が自分の身体に沸き上がり、自分自身が穏やかな心とやさしい気持ちなることができる。多くの武道家は誰よりも強くありたいと願い、その達成された先には必ず何者も恐れない自分がいるはずだと信じる。しかし、それは幻(まぼろし)であり、武道の素晴らしさは強くなった最後にあるわけではなく、自分の弱さを日々克服して自己実現を行っていく稽古の中にこそ存在している。

講義20.空手道の最高境地について
解説 江上茂は自身の体験を踏まえて、空手道の稽古には、いくつかの段階があるという。「始めは、ただ喧嘩(けんか)に強くなりたいと言うことだけだった。次に単なる体技を離れて、心と体の関係について考え悩み、心身一如の心境を求める。最後に、体技、心法を兼ね学び、本当の強さとは単なる腕力、体力の強さでないことを知る。・・我が歩く道は、至上最高への道と信じ、命懸けで残された教えは、命懸けで受け継がなければいけない。」との思いを後進に残している。学問・技術その他世間の物事を広く言えば、真実は一つであるが、それに到達する手段には多くの種類と段階がある。その一つを軽んずるようでは決して最高の境地には到達できない。
 また、中国の剣の道の段階的な修行も、「まず、剣の道の基本は、人と剣との一致。剣は人なり、人は剣なり。手中の草も武器となる。次に到達するのは剣を手から捨てて心に持つ境地。素手でも心で100歩離れた敵を倒す。そして、最高境地は、手にも心にも剣のない境地。大きな心ですべてを包み込む。そして、人を殺さず平和を求める心である」という。技の極意の修得や試合がいけないということはありません。ただ、それらは単なる一要素に過ぎず、稽古の一過程に過ぎないことを忘れないことです。そして、もし、それらが全てになってしまった時は、そこには「道」がないということを全ての武道家が知らなければなりません。

講義21.至上最高への道
解説 江上茂は、「至上最高への道」という言葉を後世に残し、その真の意味はそれぞれの空手家に託したままこの世を去っていった。この空手家は日々の稽古による自分自身の変革が、ひとりの愛する人を守るための未来の実現が可能となり、他人に対しても同じ行動が自然にできるようになる。その助けられた多くの人々も同じ行動で連なることで世界の人々の未来も守ることができるということだったのだろうか。1984年に製作された剛柔流空手を題材にしたアメリカ映画「ベスト・キッド」のように、一人の人を守る護身術から世界の人々を守る護身術という壮大なロマンがこの武道空手の世界には確かに存在する。
 空手道に関わらず、学問、スポーツ全ての分野でその道を極めた人には、大いなる力と名声を得ることができる。しかし、それと同時に大いなる責任が伴うことも忘れてはならない。人の人生を危めることを追求した空手道の稽古などは、決して空手道の世界に存在してはいけない。常に自分を戒め、自分自身と生涯闘い続けながら、空手家として社会のためにどのように役立っていくかという私たちの課題が残されている。江上茂の思い描いていた至上最高への道は、武道の達人への道だけではなく、至誠の道に徹する人間らしい自然に生きる平凡な道であった。

講義22.師を越える生き方こそ、一番の恩返し(ペイフォード)
解説 武道の世界は、目標とする人生の師との出逢いがある。その師との出逢いの中で、素晴らしい師に出逢えた武道家は幸せであり、師に出逢えない武道家は不幸であるといえる。武道の門は人が真に求める人生の道を修めることであるからである。師は弟子に厳しく、時に優しく人生に深みのある人間に育てていき、弟子は師の技と名誉を生涯を掛けて守っていくことである。
 修業課程には、「守・破・離」という考えがあり、「守」とは師の教えを守り自分の意見を挟まず基本を大切にすること。「破」とは師の守の殻を破り今までの教えを基本とし、自己の知能や個性を発揮して次第に自己の空手道を創造すること。「離」とはあらゆる修業の結果が思いのままに行動してもいささかも外れることもなく、一つの流儀にとらわれることなく、自由闊達に自己の武道を発揮できることである。後進の修行者は、師から教えてもらった空手道の技と人生の尊さの恩返しとして、師を越える目標を立てるべきである。そして、師を越えたならば、お世話になった人に直接に恩を返そうとせずに、これから空手道を学ぼうとする人に恩を返すべきである。
 この考え方は古い人情論に見えるかもしれないが、普遍性のある最も新しいペイフォードと同じ考え方である。歴史を学び、あらゆる他武道をも研究し、武技・武術としてより崇高な空手道の高嶺を目指して、生涯を空手道に捧げた先人たちの残心の思いを引き継ぎ、空手道の理想を実現させることが残された私たちにしかできない使命である。歴史に名を残す偉人の影には、必ず名を求めない影で支える不惜身命の偉大な弟子の存在がある。

2.上級者向け心術について

講義1.武道家の真の自由について
解説 武道家の偉大さは、その人の技にあるのではなく、自分自身にとらわれないことにあります。自己を忘れ真理という大目的の為に進んで身を捧げ、しかも謙虚であること。それが武道家の偉大さ真の自由と呼ばれている。

講義2.稽古(けいこ)について
解説 稽古とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ことである。先人たちが、命をかけて追求してきた技術と真理を頭だけで考えるのではなく、自らの行動の中から実践と経験により理解することが何より大切なことである。
 物事の真理と哲学は、決して頭の中にあるのではなく、現実世界の中の血と汗と涙の中にある。何かに行き詰ったり、悩んだりした時は、友人の言葉だけでなく、過去に生きた先人の言葉の中にも解決の糸口があることを忘れてはいけない。
 
講義3.技の修得から剛毅勇武(ごうきゆうぶ)の心の修得へ
解説 空手道修行者は他人の批判に耳を傾け、常に自省することを心がけなければならない。しかし、一旦事なる場合、自分が正しいと信じたら、たとえ一人になっても全世界の強敵に立ち向かい、世界から血走った眼でにらまれてもいかなる困難にも負けないという意気込みがなければならない。
 恐れてはいけない。君の小さな心の声に従う勇気を持つことに!

【一人の黒人ボクサーの勇気】
 1960年代、大男たちが力任せに殴り合いをしていたボクシングのヘビー級時代に、新たな華麗なフットワークと鋭い左ジャブを活用する一人のアメリカ合衆国の黒人ボクサーが現れた。それはモハメド・アリである。その彼の華麗なテクニックは、蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly, sting like a bee) と呼ばれた。実力的にもロンドンオリンピックの金メダリスト、世界ヘビー級王座を獲得とタイトルを欲しいままにした。
 彼の生き様はただ単に勝つことにこだわらず、人生のリング外の闘いにも全力を尽くした。ファイターとしての誇りと生き方を追求し、徹底した禁欲主義、そして、人種差別と戦った。ベトナム戦争時にはリング外での戦いは行わないと徴兵を拒否した。そのため、最初の裁判で禁固5年と罰金1万ドルを科せられ、ヘビー級王座とボクサーライセンスも剥奪される。アリは、その後も信念を曲げずに戦い続け、4年後の1971年に最高裁判所で無罪を勝ち取った。そして、彼は再び、実力で王座奪還を果たしている(公民権運動の貢献が称えられ、ドイツの平和賞を受賞)。

 ※ If they can make penicillin out of moldy bread,
   they can sure make something out of you. “Muhammad Ali”
 (訳)パンのカビだってペニシリンになれるのだから、
   君たちだってきっと何かしらいっぱしの人間になれるだろう。モハメド ・アリ

講義4.空手道の指導者に必要な要素について
解説 世間の評価よりも何よりも自分自身が人間の立派さはどこにあるのか、それを自分の魂で知ることであり、心の底から立派な人になりたいという気持ちを起こすことが必要である。良いこと、悪いことを一つ一つ判断する時も、自分の胸から湧き出るいきいきとした感情に貫かれていなくてはならない。
 他人の眼に立派そうに見えるように振舞う生き方を選択させてしまったならば、自分が人の眼にどのように映るかを一番気にするようになり、本当の自分が分からなくなってしまう。子供たちを育成する立場にある指導者は、子供たちには嘘やごまかしは利かないことを認識し、先代の師範に代わって次世代を担う大切な子供たちを指導をしているということを忘れずに、全力で子供たちの育成に力を入れなくてはいけない。また、現実がどんなに厳しい環境であっても、理想を語ることを忘れてはならない。指導者が夢や理想を語らないならば、子供たちに誰が語ってあげるのか。

講義5.考えることより、感じること
解説 昔、ブルースリーという映画スターがいた。彼の映画の中で、ブルースリーが蹴り方を少年武道家に教える際に有名な言葉を残している。『we need emotional content』(私たちに必要なのは感性だ!)、『I said emotional content. not anger!』(感性を研ぎ済ませ。怒りではないぞ!)、『Don't think. feel.』(考えるな。感じろ。)、『It's like a finger pointing away to the moon』(月を指すのと似たようなものだ。)、『 Don't concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory』(指に集中するな。その先の栄光を得られない。)
 この意味は相手を突いたり受けたりする際に、相手の的を目で追いながら突いたり、相手の手を見て受けたりすると相手の動きを目で判断してから動くため、突きと受けが一歩遅れることになる。しかし、相手の全体をぼんやりと見て、自分の感性で相手の的に攻撃しようとすると周辺視野が働き、一歩も遅れることなく瞬時に突いたり、受けたりすることができるようになる。つまり、「指先に集中するな」とは指先だけを見て考えていては、相手の真の動きをとらえることができない。その先の全体(月)の動きに対して、自分の感性を働かさなければ優れた力が発揮されないことを教えている。

講義6.人に教えることは、教えられること
解説 小川未明の童話集に「小さい針の音」という短編童話がある。この話は田舎の青年教師が、子供たちに勉強を教え充実な生活を送っていたが、変化のとぼしい田舎にいるうちにいつしか都に出てもっと出生したいと考え始める。青年教師が教師を辞める前に、子供たちはみんなで別れの品として時計を先生に差し上げました。青年教師は学校の先生を辞職してから東京の下宿先で子供たちから貰った時計を見ながら必死に勉強した末に、難しい試験に合格し役所(政府機関)に再就職しています。
 数年の年月を経て、元青年教師は役所からある会社に移りました。そして、子供たちから貰った旧式の安時計を付けて会社に行くのが恥ずかしく感じるようになり、教師を退職する時に生徒から貰った記念の時計を小道具屋に売ってしまいます。その後、元青年教師は会社の重役に昇進し、昔見すぼらしかった姿はありませんでした。ある日、元青年教師は教師を退職する時に生徒から貰った記念の時計を小道具屋に売ってから、偶然にも子供たちから貰った記念の時計を部下が大事そうに付けているのを見つける。その元青年教師は、自分の高級時計と部下の中古の安時計と交換してもらいました。
 その夜、教師時代の自分の授業風景の夢を見る。青年教師は子供たちに将来の夢について質問をしています。「皆さんは、大きくなったらどんな人になりたいですか」、一人の子供が立ち上がり、「いい人間になります」と答えました。元青年教師は、「いい人間とはどのような人ですか」と尋ねた。その子供は躊躇なく、りんごのように頬をほてらして、「世の中のために働く人になります」と答えた。子供の純粋さに、元青年教師は覚えず感動している。同時に、夜の眠りと儚い夢から彼はさめたのであります。「今まで俺は社会のために何をしたのだろうか」と恥ずかしくなった。いつのまにか社会の荒波に揉まれながら、自分自身を見失っていたのは私の方ではないか。十数年前の教師時代の楽しかった頃を思い出し、改めて人としての生き方を子供から教えられるという話である。
 空手道をより深く学ぶには、人に教えることが大切である。なぜならば、自分が技を理解していないならば、人に教えることができないからである。教えると言っても、ただ、自分が知っていることを知らない人に教える程度で十分である。指導者が生徒に教えながら、自分も理解するということは良くあることである。また、この童話が私たちに伝えたいことは、人が生きる上で当たり前の事をとても純粋な視点で物語にしている。しかし、同時に当たり前に生きる事の難しさを私たちに教えてくれている。

○サン=テグジュペリ「星の王子様」
 「星の王子様」は、サン=テグジュペリが若き日に飛行機故障によりサハラ砂漠の環境で、孤独と死の恐怖の中で人に助けられ、人の絆の有り難さを知ったことから生まれた。この物語は、砂漠に不時着した飛行機のパイロットが、遠い小さな星から来た少年に出会う不思議な物語である。
 この物語の中では、大人と子どもの考え方の違いが語られます。大人は、目に見える表面的なことで物事を判断しがちです。どんな服を着ているか、財産はどうか、データはどうなっているのか。しかし子どもは違います。子どもは相手の姿形に左右されません。子どもにとって大事なのは、心で感じたことそれだけです。この物語で伝えたいことは、「大切なものは、目には見えない」という事である。
 人はここに存在する目に見えない大切なものに気づかず、目に見える意味のないものを大切なものであると思う。それに気づくためには、自分の判断が絶対であるという考え方を捨てることと、自分自身にとらわれないことである。例えば、見る手法としては、だまし絵「婦人と老婆」の絵を見るときのように、老婆と婦人を同時に見ることはできないので、見る視点を変えることにより婦人と老婆を見分けることができる。つまり、自分の曇った偏見という名のレンズを捨てて、透き通った眼で物事を見つめた時、コップに入った透明の水にどんな物を入れても隠すことができない。このように物事の大切な真実が見えるということである。

講義7.生きるとは、何かを生みだすこと
解説 1952年、黒沢明監督の「生きる」というモノクロの映画が公開された。そのストーリーは、市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。
 ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師から軽い胃潰瘍だと告げられた渡辺は、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。そんな時、渡辺はかつて部下だった若い女性の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを渡辺が彼女に伝えると、彼女は自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだできることがある」と気づき、住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて息を引き取ったのだった。しかし、渡辺の創った新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。
 この映画は私たちに無意味に過ごす生き方ではなく、何か意味ある人生の過ごし方の大切さを私たちに伝えようとしているように思います。

講義8.千利休から武道を学ぶ
解説 1522年、千利休は泉州堺(大阪府)の問屋町の長男として生まれた。武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶の湯と禅を学んで禅の影響を受けながら、茶の湯の精神を極め、独特な茶室・茶道具を考え出して、今のような茶道を確立させた。紹鴎は人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀式的な形よりも茶と向き合う者の精神を重視した。また、「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採りこみ、高価な茶碗を盲目的にありがたがるのではなく、日常生活で使っている雑器を茶会に用いて茶の湯の目的を簡素化に努め、精神的充足を追究し、「侘(わ)び」(枯淡(こたん)を求めた。
 天下の武人(織田信長、豊臣秀吉等)に仕え、茶道千家流の始祖となった千利休の名前の由来は、「利休、休せよ」(才能に溺れずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。晩年、天下人・豊臣秀吉の側近として天下泰平の世の為に、政治の世界でも秀吉を支えた。しかし、天下に自分の名を轟かせたい秀吉の野望と、千利休の欲望や見栄にとらわれず民衆のために生きようとする純粋な生き方は、秀吉から反感を買う事となり切腹させられている。千利休は武士が持ち備えていない、剣を振りかざしても恐れない、生も死も完全も不完全もない世界観(永遠の現在)を持った茶人である。日本は世界で唯一、貧乏人が尊敬されてきた民族である。どんなに立派な着物を着、豪勢な屋敷に住んだところで人間の値打ちは上がりはしない。それよりも、千利休のように豪邸も学歴も身分もない人物でありながら、高潔な心を持ち、立派な見識を持っている人なら多くの人に愛され、時代を動かす大きな原動力にもなる。日本人の和の魂は、例え貧乏していたって尊敬するべき偉大な人はたくさんいます。だから、自分の人間としての値打に本当に自信をもっている人であれば、堂々と生きていられるのである。
 
講義9.書道から空手道を学ぶ
解説 書道の歴史は長く、武道の理を知る意味では共感できる部分がある。「書は人なり」と言う有名な言葉があり、これは書き手本人の生き方が時代の中で個性とエネルギーを持ち、書に表現されていることをいう。「良い字」は、ただ上手なだけでは足らない。例えば、良寛の書は細かくて頼りない線質で決して上手ではない。しかし、たっぷりと余白があり、丸みのある書が人々の心を癒し、絶大なる人気を得ている。この書には技術、うまさ、テクニックとは異なるところがあり、良寛の生き様、人間性がそのままにじみ出ているのです。つまり、その人の魅力が作品自体にとてつもないパワーが宿るのです。
 書道だけでなく芸術の世界も同様に、ピカソ(スペイン画家)は若き日に写真と瓜二つの絵を描いていたが、ドイツ空軍の都市無差別爆撃の模様を描いたゲルニカでは簡単には誰もが理解できない描写で描かれている。ピカソが描いている絵は自分の絵の上手さを人に伝えようとしたり、対象者を特定の専門家に向けたものではなく、絵を愛する全ての人に向けられているために写真では表現できない心の表現を強調したものであると考えられる。ゲルニカの絵は 傷ついた馬、死に絶える市民など悲惨な戦争の光景を表現しており、写真では伝える事ができない画家の悲しみと怒りを多くの人に伝えようとしている。他にも美術はキリスト教会などの壁に多く描かれているが、文字が読めない人のためにキリスト教の精神を理解させるために描かれたものと言われている。芸術の目的は写真や文字で補えない、人に伝えたい想いを伝えるための重要な役割を持っている。
 空手道の形の演武も同じである。書はまず文字の基本となる楷書を学び、読むことを意識した行書、草書へと発展するように、文字の一画一画を意識した文字の向上だけに留めてはいけません。空手道も初心者は一つ一つを分解した基本となる剛拳型の稽古をまず初めに行い、柔拳型の稽古として今度は一つ一つ切り離す稽古ではなく、技の一連の流れの中で技を省略した水が流れるが如く一連の動きで表現できる自然な動きを目指さなければいけない。そして、日々の考え方、行動がそのまま技に反映するため、自分を成長させることが良い演武につながっていきます。形の稽古を積み重ねていくプロセスにおいて、ただ形の美だけに注目するのではなく、演武する時の気持ち、伝えたい想いを大切にしなければならない。そして、その演武者の個性を最大限生かし、見ているものを魅了させる演武こそ、素晴らしい演武ということができます。練習の時は適当に稽古し、本番だけ気合を入れる人がいますが、本当に大切なことは日々の稽古を全力で挑んでいるかどうかなのです。

講義10.武道空手の発展について
解説 現代武道の多くは、競技試合により大きく発展させた。その一方で、現代武道の多くは専門化が進み過ぎた面があり、競技試合本位に流れ武道本来の理合は失いつつある。そんな時代の趨勢の中、日本人の伝統的精神を育みながら小の兵法(一対一の技)の修練から大の兵法(社会的応用)を目指し、組手の競技試合を行わない武道も同じように武道の社会的評価を高めている。
 しかし、「試合をしない」というより「強弱」や「勝敗」を求めないとする理念は、目的意識を見失い中途半端な結果に至る恐れも内在しているように思われる。武道技術(心・技・体の調和)の指導者は、教える側と学ぶ側の認識の違いを理解し、学ぶ側の心の状態を見抜く眼力と細心な注意を要することである。つまり、どんな時代であっても優れた教育者でなければならないということである。そして、弱者を強者へと人材を立派に育て上げ、社会で活躍させることが真に価値あることであり、それが可能なことが日本文化たる武道の持つ偉大な力である。日本文化の華である武術は深く修得すれば深きに達し、武道の発展と共に人類の発展に大きく貢献することが可能である。

講義11.いつしか時代が君を必要とする。
解説 武道の稽古は厳しい。時に忙しい日常生活の中でも稽古を続けなければならない。そんな生活ばかり送っていると、将来の事や青春時代を無駄に過ごしているのではないだろうかと自分の進むべき道に迷うことがある。多くの友人は海や山に旅行し、遊びに楽しさを求めて青春を謳歌しているのに、私は何のために貴重な青春時代を汗臭い地味な道場の中で多くの時間を稽古に費やしているのだろうか。私は大切なものを見失っていないだろうか。もっと時代の流行に敏感にならなければいけないのではないだろうかと考えることもあるかもしれない。
 澤井健一は貴重な名言を残している。ここに壊れて動かない時計がある。君なら捨てるだろう。この壊れた時計をバカにしてはいけない。壊れた時計も一日に2回正確な時間をさすではないか。これは時計が時間を追っているのではない。時間が壊れた時計に合わせているんだ。私たち武道家も時間や流行を追いかけるような生活をしてはいけない。流行にとらわれて、世間にとらわれては必ず自分を見失う。君は、自分に自信を持ち、どっしりと構えて武道の稽古に励みたまえ、そのうち時代が君に合わせるようになる。いつしか世間が君を必要とする時が来るんだ。武道家の本分は血と汗と涙を流すような稽古を行い、体の中に財産を築くことである。お金を必要以上に儲ける。きれいに着飾ることは武道家のすることではない。財産とは技術や力だけではない。人を敬う心、人を愛する心、自分に厳しくする心などお金では買えないものばかりである。
 武道の稽古は見てくれの不完全燃焼の青春とはまったく違う。真剣勝負の稽古の闘争の中で誰もが味わえない一瞬の輝きに全てを駆ける。そして、眩しいくらいに真っ赤に燃え上がる花火のような輝きを放ち、燃え尽きた先には充実感しか残らない。この充実感の中で、君の体の中に一生消えることのない目に見えない無形財産が築かれていく。人生は、経験や能力を磨くだけで約束された未来が開けるほど単純ではない。社会で活躍できる能力がありながら、自分で自分の命を終わらせるものや恵まれない人生で終えるものもいる。武道家は無形財産(生きるための知恵)を築くことである。有形財産(お金・豪華な家など)の価値は有限ですが、無形財産は無限の価値を生み出すことができる。自分のなりたい夢の実現や世界のリーダーにもなれるかもしれない。この無形財産は人としての器を大きくし、多くの人を存分に輝かせ、多くの人を社会で大きく羽ばたかせる翼に変える。

講義12.自分のためではない戦いの先には、生きる人々の笑顔がある。
解説 人は生きる上で様々な戦いがある。自己との闘い、他人との争い、環境との人類の共存など、現実に老若男女の腕力だけでない心の精神の戦いは日々存在する。それは戦いの先には必ず人の笑顔があると信じているからだろう。
 直接的には格闘技とは異なるが、東北の冷害に苦しむ農民のために、厳しい自然環境と生涯を戦い続けた宮沢賢治という人物がいる。彼は生涯を冷害に強い農業活動というとてつもない大きな敵と戦い続けた。また、彼は詩の創作という中に、多くの人に伝えたい思いを小説の中にもぶつけていった。これも戦う相手は個人ではないが、社会に向けた一種の格闘技というものではないだろうか。
 戦いに勝つための方法は、その分野により手法が異なる。しかし、すべての分野に共通するものが闘う精神であり、その先には必ず人の笑顔が存在することである。武芸には、「一芸は万芸に通ず」という言葉がある。空手道を深く学び本物の空手道を極めれば、あらゆる分野の良き道を開く闘争を極めることになる。

講義13.将来、空手道も女子が主力の時代!
解説 廣西元信は、「百年後、空手道は女子が護身術・整体術のようなもので主力になってもらいたい」(廣西元信追悼録)と言われている。女性は男性に比べて生理学的に肉体の部分では負ける。そのため、日常生活において、男性以上に怖さを抱えて生きている。そのような一番苦労している人々に、平安な日々を送ってもらいたいというのが空手道の女性の主流化である。
 これからの社会は女性を大切にしない組織も国の将来も先がないだろう。女性が女性らしく社会で希望を持って生きられる空手のあり方を考えていた廣西元信は時代を先取りした人物であったと言える。女性空手家の課題に応えいくためには、女性は男性のように気合や力に頼らずに、女性らしい美しさとしなやかさを使った柔拳空手の研究・研鑽が不可欠である。誰もが自身の腕や足の重みを感じない。つまり、相手の突いてくる拳を自分の分身として受け入れれば、相手の拳は思いのままである。柔拳空手の研究・研鑽は女性の力の整合性に焦点を当てることが近道である。その力の整合性が達成された時、茶道が男性から女性の行事に変わったように、空手道も女性の美しさが表現される武道に変化する。
 廣西元信は学生時代から理想主義に生き、それにより多くの苦労もしている。学生運動が盛んな時代に、東大、早大などの優秀な学生がマルクス主義に魅了されて留置されていた。その学生の生き方に興味を持たれ、廣西元信は経済学者ではなく空手指導者であるが、反マルクス主義、反共産主義の立場から「資本論の誤訳」などのマルクスの真の意味が翻訳されていないという異論を述べる多くの著書を残されている。マルクスの主張する「社会的所有」という概念は「会社的所有」のことであり、マルクスの理論は国有・国営社会主義ではなく、資本主義的株式会社が利潤分配制の連合的株式会社に転換することで社会主義社会が実現するという解釈であることを述べた。株式会社は共産主義社会まで存続するというマルクスの見解を高く評価した上で、改めて利潤分配制を導入することで資本家と労働者の不平等が発生する資本主義の問題点を解決できることを主張した。廣西元信は生き方に不器用ながらも、「人がどう生きるべきか」という課題に武道家として真っ直ぐに向き合っていた人物である。
 
講義14.フロンティア精神を目指せ。
解説 松濤会空手は試合を重要視する流派と異なり、技の可能性は無限大である。若い人は、空手だけにこだわらず、いろいろのものに挑戦する精神は必要である。剣道、柔道、サーフィンなど、深く掘り下げて行う姿勢さえ持っていれば、何かしら学ぶことができる。伝統を重んずるばかりに、他の習い事を遠慮してはいけない。
 人生にはいい時もあれば、悪い時もあるように波がある。その人生の波乱の中で、空手道の稽古を10年、20年と続けることは難しい。いつも神経を張り詰めていては、いつかその緊張の糸が切れてしまう。大きなジャンプをする時には、一度はしゃがむことも必要なことである。昔の武人は書道、水墨画の大家が多い。彼らは稽古に行き詰った時に、他の道に安らぎを求めていた。それは逃げることではない。一度武道から離れ、冷静に自分を見つめる時間を作ることで、自分を大きく飛躍させるためである。一つのことを大成させるためには、それを中心として支えるものが必要である。

講義15.非暴力
解説 非暴力とは暴力的な支配者に対して、民衆の暴動での解決手法ではなく、人権擁護として相手の良心に問いかけながら平和的な手法で解決させる政治思想である。ガンディーが現れるまでは、国の防衛(自衛)として他国からの不正な侵害に対して、軍隊が攻撃を行うことにより自国を守るための権利(国際憲章)を行使していた。つまり、やられたら、やり返す行為である。
 ガンディーは、暴力による解決は多数の犠牲者とやられた側の「怨み」による永遠の争いの連鎖になるため、「非暴力」の政治思想によりイギリス帝国に植民地化されたインドを独立させた。拳銃を抱えて向かい来るイギリス兵に対して、武器を持たずにイギリス国民の意識に大きな変革をもたらせ、大英帝国をイギリス連邦へと転換させた。これが端緒となり米国の黒人差別やミャンマーの軍事独裁政権に対する抵抗など世界中にこの運動が波及されている。ある時、イギリス将校が嫌みを込めてガンディーに質問した。「君はどうやって、インドの独立を勝ち取るつもりか(出来る筈がない)」、それに対してガンディーは、倒すべき相手であるイギリス将校に「あなたと共に実現するんです」と答えたと言われている。ガンディーは、心に何を描いたのだろうか。それはインド人のことだけではなかったはずである。インド人、イギリス人・・民族を超えてお互いが仲良くできる未来のために、敵と味方を分け隔てせず、すべての人を共に歩む同志として心から誠意を尽くして接したのではないだろうか。この行為は単に争いを好まない、「ただのお人好し」とは異なる。本当の勇気を持った人しかできない、敵に対しても心を開く勇気ある行動である。ガンディーの民族を越えた人類愛の精神は、1947年、インドとパキスタンの分離独立の前後でヒンドゥー原理主義者からは、イスラム教徒に対して譲歩しすぎるとして敵対視された。ピストルの弾丸を胸に撃ち込まれたガンディーは、死の寸前で新たな争いを避けるために、自らの額に手を当て「あなたを許す」と人生最後の言葉を自分の命を奪った相手に対して残している。瞬時に相手の苦悩を理解して、命懸けで和平の道を貫いたこの行為は、武道家の目からは誰もができない、長い年月の中で培った信念の人とも言える。国連欧州本部敷地内にガンジー坐像があります。この像には、「My life is my message(私の生き方が、私(皆さんに伝えたい命がけの)のメッセージです」と刻まれている。
 日本にも幕末期に大政奉還へ向けて、坂本竜馬と共に陸援隊を率いて奮闘した中岡慎太郎という暗殺された志士がいた。彼が暗殺される際に血まみれになりながら、自らを不意打ちをした刺客に対して、「卑怯を憎むべし、豪胆愛すべし」(自分を暗殺するという行為は憎むが、自分を狙う豪胆さは認め愛する)という言葉を残している。お互い立場変われども、国家、万民の天下泰平の大義のために大胆な行動は敵ながらあっぱれであると理解した想いである。試合は勝敗で決まるが、人生はそうではない。例え、命を取られたとしても、自分が納得できる覚悟があれば負けとは限らない。また、沖縄唐手の大家である東恩納寛量においても沖縄唐手を始めるきっかけとなったのは、自分の父を殺された復讐のために中国に渡ったと言われている。しかし、東恩納寛量は、稽古を続けることによって復讐心を捨て、父を殺した仇を許したと言う。結果的には目的を果たしていないが、これも同じように人生の勝利であり、武道の持つ偉大な精神の悟りの境地かもしれない。

講義16.松濤會の一分(いちぶん)
解説 空手道を船越義珍が沖縄から本土に伝えてから半世紀以上経っている。その間に、技の考え方等により多くの流派が生まれ、それぞれ独自に活動を行っている。船越義珍は生涯に渡って流派を好まれず、空手道という流派を越えた交流を行っていた。松濤會空手には大学空手部を中心として、現在も多くの技や動きの異なる考え方があり、これらの技の違いを認め合っている。大学空手部の中には、船越義珍の教えを忠実に再現する剛拳の形、江上茂の形を再現しようとする柔拳の形及び技を更に発展させようとする大学など、例えるならば、異なる流派がお互いに交流し合い、一つにまとまっているようなものである。そこには、流派間の争いなどない、平和で穏やかな日々がそこにはある。そして、みんながそれぞれの空手の道に誇りを持ち、お互いを刺激し合い切磋琢磨している。
 現在、多くの流派は、武道からスポーツとしての道を歩み始めているが、松濤會空手は、初代松濤館館長 船越義珍範と弟の絆による師子(※1)の魂の群れとして、永遠に恩師との約束と武道の大切な心を大切にしながら、勝者の栄光を掴むことを第一の目的としない熱き情熱を秘めて、100年、200年先まで継承していくに違いない。しかし、長い伝統の中で、安全な場所で育てられた肥えた豚になってはいけない。大草原の荒野の中で獲物を求め、傷だらけになりながらも必死に生きようとする飢えた狼のように、どこでも誰にも負けないというハングリー精神を持たなければいけない。傲慢になれという意味ではない。自分の未熟さを常に戒め、もっと強くなりたい。もっと立派な武道家になりたい。そういった精神が魂に宿っていないならば、笑いものになるだろう。そして、人を感動させることなど到底できないし、人の痛みを理解できる暖かい心も養われないだろう。松濤會の稽古生は、他道場との交流稽古があまりにも少ない。試合という形ではなくても、多くの稽古生が他武道や他流派の技を学び、武道を極めようとする真の武道家から謙虚に技を教えてもらい、本当の強さを追及していくことがこれからの松濤會の発展には必要である。そのようにして、自分自身を鍛え上げていかないと井の中の蛙大海を知らずということわざのように身勝手な空手道になってしまうだろう。
 この会は戦争という不幸な歴史の中で、度重なる解散の危機に陥り、それでも今日まで諦めなかった空手家たちのプライドによって、松濤會の精神は継承し続けられている。何よりも空手道を愛し、自分の将来と同じように空手道の将来について常に考えてきた会でもある。これからも空手道を通して多くの希望の光として、誇りと生きる意味を見失った人に新たな勇気と生きる力を与えていく空手道の世界を目指していくことだろう。松濤會は世間の評判に左右されないで、誰も見ていないところで限りなく努力をする。しかし、その心こそ、人生の最高の栄光を掴むことができる。そう信じるんだ。長い年月の中、幾多の存亡の危機を乗り越えて、国内外で活躍する逸材を育成してきた松濤會のこだわりであり、武道家としての一途な一分(※2)である。

 ※1 師子(獅子):ライオン。古来,百獣の王とされ,権威・王権などの象徴ともされた(三省堂大辞林)。
 ※2 一分(いちぶん):譲れない心。命を懸けても守らなければならない名誉や面目の意味。


講義17.将来の空手界の発展のために
解説 世界は民族を越えたグローバル化の時代を益々加速させているが、空手道は今もまだ派閥を作りながら少規模にまとまりたがる傾向にある。船越義珍は将来の空手道の発展のためには、師範者個々の形・技に対する意見の違いを中心に何々流・何々派と公表するよりもすべてを「空手道」と呼称して、みんなが空手道の道に切磋琢磨しながら邁進する未来を期待されていた。
 師弟関係で大切な事は、異体同心の稽古である。師範を越えることを目指す武道の技と考え方は、より高みを目指すために時代と共に進化し続ける。空手道の技や考え方は一つであるなどと固定観念にとらわれてはいけない。空手道の技と考え方は、百も千も万もあるから武道空手の存在意義がある。技や考え方だけにとらわれて、一番大切なことを見失ってはならない。志を同じくするものが、和の精神力で組織のしがらみや固定概念にとらわれることなく自由な魂で空手道の本質を学び、異なる考え方を持つ多くの空手家と活発な技の交流を行うことにより、一人では到達することができない空手道の真の素晴らしさを見いだすことができるかもしれない。武道家が変わってはいけないのは、師範の思いを一生涯引き継いでいくという心だけである。
 現在、多くの空手家が、流派を越えて誰もが純粋に技の研鑽と交流ができる空手道の世界を夢みているのではないだろうか。世界の空手界では、流派の枠は存在しないという。純粋に精神修行の場として相手を尊重し、武道間や流派を越えた交流が行われている。そこには一人の武道家として、自分を成長させてくれる同志と技の極みを追求していく。難しい理屈もルールも存在しない。それらが彼らを強くし、そして人間的に成長させていると言える。今日も男の中の男たちと女の中の女たちが、世界中で究極の空手道を目指して稽古に励んでいる。

講義18.安らかに楽しく空手道を学ぶ上での心得
解説 真の空手道を目指し、身の振る舞いを重視して空手の稽古を行えば、厳しい稽古もいかなる困難も安らかな心境に達することができ、心身一如により身体も生活上も心穏やかに生活ができる。そのためには、四つの心得が必要となる。
 一つ目は空手家としての身の振る舞いである。いつも自分を律する境地におり、柔和な心を持ち、我を張らず、正しい道理によく従い、挙動に落ち着きがあること。第2は、つまらない勝負事や神秘的なことに心を奪われず、精神を統一して純粋に稽古に励むこと。第3は、好んで人の欠点を掘り出したり、他人を軽蔑する気持ちを持たないこと。第4は、環境に影響されない強い忍耐強さを持ち、空手道の目的はこの世界に存在する一切のものを愛情を持って守るためにあること。

講義19.稽古の先にあるもの。
解説 松濤會空手は、私たちのできる稽古をひたすら行い、生きている時の成功にこだわらない価値を生み出そうとしている。けれども、私たちがその厳しい空手道の稽古を行った結果、どんなにすごい技を生み出しても社会で活かせる道がないならば、人々にもたらす利益も僅かでしょう。
 もし生きた武道として、日々の稽古から世の中の移り変わりを冷静な視点で見る心の眼と何事も恐れない勇気を身に付けて、一人のもので埋没させずに名声や出世という儚(はかな)い小さな活躍のためではなく、世界中の子供たちが戦争の惨禍で悲惨な涙を流すことがない、多くの人が笑顔で暮らせる社会に尽力する大きな夢を持った人材を育成したならば、松濤會空手は社会に大きく貢献したことになるでしょう。
 松濤會空手の人間の限界を超える厳しい稽古の先には、決して勝者の栄光でない、第一義的に人の生き方を問う、誰もが人生を輝かしく生きるための人生武道を目指していると言えます。なぜならば、その思いは多くの命が失われた戦争の時代を生きた船越義珍が、武道家である前に貧しい小学校教師であった頃の決して忘れることができない故郷への希望の願いがあったからである。

講義20.武道教育者の魂
講義 教育の第一人者として、松下村塾の吉田松陰から学ぶべき部分は多い。彼は30歳という短い生涯で終えているが、吉田松陰が教えた僅か二年で明治維新の立役者である高杉晋作、伊藤博文(初代総理)、品川弥二郎(内務大臣)、山田顕義(国学院・日大創設者)などの多くの逸材の人物を育てたことで有名である。松下村塾の中には何十年と牢獄の中にいた者や下級武士の子供など身分差別の中で生きる希望を失っていた人々も学んでいた。松陰は身分や出身によって人を選ぶことはなく、一人ひとりから才能を開花させることに努めた。下級武士の子供が集まる松下村塾に教科書はなく、まともな校舎すらなかった。松陰は、「この命をどう燃やし、どう使い切るか」(人生を本気で生きる)、この事さえ塾生が理解できれば、人生のあらゆるものが学問に変わると信じていた。 
 当日の時代背景は、身分差別が厳しく、民衆の暮らしは満たされていなかった。多くの民衆の悲しみは、新しい時代の訪れを誰もが望んでいた。その時代の幕開けを望む松下村塾の塾生は、単に勉強を教えてもらうという次元に留まらず、吉田松陰の存在が人生の指針であった。また、吉田松陰も塾生の存在が生きる希望であり、彼らに出会えたことがとても誇りであったと言える。一人ひとりを弟子ではなく友として接し、同じ目線で家族以上に深い絆で真剣に語り合っていた。教育は、知識や技術だけを教えても何の意味もない。教える者が深い愛情に変わるような伝えたい思いや生き方があってこそ、学ぶ者の人生が変わり、その結果として日本を変える人材を育成することができる。松濤館の再建に全力を注がれた江上茂第二代館長も決して、弟子を弟子と呼ばずに友として接し、人を見下げることなく同じ目線で弟子に真剣に語っていた。このような同志を大切にする心が、今までの松濤會空手を80年以上に亘って支えてきたのだろう。松濤會は、武道性を重んじる団体としてこのような精神を忘れてはならない。なぜならば、武道空手とスポーツ空手の違いは、「いかに武道家として生きるか」という志が空手道の中に存在するかどうかの違いだけではないだろうか。
 船越義珍初代館長は、日本が貧しかった時代の戦後の焼け野原の中で、「空手道によって、日本の大道を開きたい」と生前述べられている。競技の勝ち負けより、為さなければならい尊い志があったからこそ、今まで松濤會の理念を守り続けてきたのだろう。戦後の焼け野原の中で、空手道によって苦しむ人々の涙にぬれた顔を新しい希望に変えることこそ船越空手の原点であり、空手道の発展に生涯を駆けられた理念である。この先代たちの大事な想いを無駄にせず、後進の人々がこの想いを感じて、一生懸命に稽古をして後悔のない人生を生きればいい。もし、まだ自分の使命や夢がない人は、これからいつでも探せばいいのではないか。人生を本気で生きれば、必ず自分だけの夢が見つかるはずである。

講義21.世界のために日本ができる事(アマルティア・セン)
解説 ハーバード大学教授アマルティア・センは、経済学のマザーテレサ、経済学の良心と呼ばれるアジア人初めてノーベル経済学賞を受賞した経済学者である。経済学の研究対象は一般的には国、個人及び企業の利益を追求した学問であるが、彼は貧困、飢餓、差別、政治的不平等の解決を目的とした経済学を研究している。9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受ける。またこの頃、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争で多数の死者も出た。これらの記憶からインドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われる。
 セン教授は日本が世界にできる事の中で、日本は他国を模範にする必要がないくらいの素晴らしい伝統文化を持っている。日本をどういう日本にしたいかは国民自身が考え、世界の良き模範者となって知性と知識を提供することであるとハーバード日本史教室(著者:佐藤知恵)で述べられている。また、「もしこの世界に日本という国がなかったら、世界はどうなっていたでしょうか。世界はより悲しい場所になっていたでしょう。世界に日本という国が存在してくれてよかったと心から思います」と最後のコメントを残されています。
 この言葉は、伝統文化の継承を目指す松濤会空手自身の今後のあり方について、ベースとなる重要なヒントが隠されています。日本の伝統文化にはあえて他の文化を模範する必要などない深い理念と哲学が形成されている。そして、その理念はとてつもない力を持っている。その理念を正しく表現するには、どうしていくべきか。松濤會の稽古生が、みんなで真剣に考え、それを稽古し、その力を日常生活で多くの人のために役立てる事です。そうすれば、いつの日か松濤會空手が日本に存在してくれた事を誇りに思う人が現れ、経済、文化及び教育の分野で多くの人に感謝される機会に恵まれるに違いない。

講義22.平法(へいほう)の理念
解説 人が笑い合い、動物が大自然を駆け回り、花が美しい花を咲かせることができるのは、太陽や雨の恵み、そよ風から感じられる空気の存在など大自然の素晴らしい見事な調和が合って成り立っている。すべての存在は、一つ一つの存在の結束が大きな力となって、私たちは支えられている。それぞれが強制することもなく、統一することもなく、相支えながら生きる。人の良し悪しを決めつけて、自分の立場や自分の考え方を押し付けて争うことなく、お互いの立場を認め合いながら生きることが本当の自然な生き方であり、平和に通ずる道である。
 昔の武士は戦国の世を生きる中で、自分たちの家族や国を守るために、剣によって多くの血が流された時代を生きていた。その武士たちの役割は、今の自衛隊や警察のような立場だったと言えるでしょう。現在もその武力がなくならないのは、人が争うという行為は時代がいくら変わっても変わらないものだからかもしれません。平法とは、戦全興の鎌倉時代に剣術家によって伝承された言葉である。この心は「平らかに一生事なきを以て第一とする也、戦いを好むは道にあらず」、その教えの根幹は「兵法は平法なり」ということに尽きる。剣術家たちは己の剣の強さをひけらかすは禍のもとであり、最大の恥と心得るようにしていた。そのため、剣を遊びや個人の争いに用いることは許されなかった。それは今の自衛隊も警察も同じ事といえるでしょう。剣の道は、この平らかに一生事なきをもつことを望み、その道のために技を磨き、己を鍛え上げていた。剣を権力や私欲のために利用するは愚か者のなせる業と心得、武道家たちは武力闘争を避けて人格形成に努めていた。蓄えた能力がありながら、平和のためにそれを表面には出さず控え目にして、争いを避けることを第一としなければならないとする武道の心である。
 武士には二つの修行があります。武士が戦うための格闘技術と天下泰平のための精神修養の二つがあります。真の武道とは格闘技術と精神修養が共に備わったものであります。武道とは個人の趣味や自己利益の範囲を越えて、社会の利益のために働きかけを持つ理念を持った武道哲学と言える。日本空手道松濤會は、この武道理念を大切にしている。

講義23.現代武道は熱く生きること。
解説 多くの侍(さむらい)は自分の命よりも大切な志のために、未来を信じて歴史を後進に切り開いてきた。今の日本をつくってくれた多くの先人たちがそういう生き様を貫いたからこそ、今を生きている私たちが存在している。人は一人で生きているわけではない。世界は大地を通して一つに繋がっているように、人も人を通して想いは世界の人々と繋がっている。
 私たちは何千年と続いた何億人もの人々の日本の想いや志を無駄にせず、今まで続いてきた日本をもっと素晴らしい国にして、自分たちの子供たちに引き続いで行かなければいけない。そういう暖かい心に溢れる血脈の空手道が真の武道と呼べるに違いない。「志(こころざし)」の文字は、「心」が「士(侍)」を支えていると書く。武道の技は手段に過ぎず、究極は熱く生きる生き方にある。日本人が一生懸命に求めてきたものは、「誠実な心」であり、信頼を得ること。また、人に嘘をつかないことを日本人は誇りとして生きてきた。そして、その心は大和魂として、今も日本を支え続けている。


第三章 応用編 −自分の可能性を開くための条件−

1.空手道から人生道へ

講義1.青春時代
解説 青年時代は綺麗な思い出となるが、青春時代の真っ只中は苦悩から離れて生きることはできない。苦悩するがゆえに青春である。その苦悩に挑み、乗り越えていくことに青年は輝いて生きていくことができる。未熟な無名な若者が、将来の夢や理想を友人や憧れの人に想いを語る時、現実とのギャップに友人たちはどっと笑う。傷つきやすい年頃に、それでもじっと耐えなければならない。
 多くの過去の先人たちも人生を切り拓く時は、青春時代を夢や理想を実現するために苦労している。大リーグで活躍しているプロ野球のイチロー選手は、小学生の頃に野球選手になりたいと将来の夢を語るとみんなに笑われ、プロ野球入団もオリックスのドラフト4位と群を抜いた選手ではなかった。それでも様々な場面で笑われながらも自分の夢を努力で叶えてきた人生であったと語った。人はなぜプロ野球のイチロー選手、プロサッカーの三浦知良選手に憧れ、感動するのだろうか。そこには男としての美しい生き方が存在する。社長、監督などを目指す事で自分を立派そうに見せることではなく、一兵卒のプレーヤーの中でも自分の目標を持ち、誰よりも限りなく努力するところに多くの人が励まされている。
 人は誰でも無限の可能性を持っているのに、多くの人が周りからの評価に振り回されて、勝手に自分の可能性を小さいものに決めつけてしまっている。しかし、私たちの目指す空手道の世界は、苦悩と困難の連続かもしれない。あえてその道を男らしく進もう。「意志あるところに道は開ける(Where there's a will, there's a way)」、これは最も偉大なアメリカ大統領の一人に挙げられる奴隷解放の父、16代大統領リンカーンの自由を求めるすべての人への激励の言葉である。

講義2.充実した人生を生きよう。
解説 武道は充実した人生を生きるための手段(道具)である限り、その能力を活用するための人間的な器が必要となる。その人間的な器を磨くためには、正しい道を学問から学び、立派な人に成りたいと意識することによって、初めて人間は鍛えられ、人の真の強さを身に付けることができます。また、最も大切なことは、何も勉強をしていないのに「俺が正しい」と言い張るのではなく、世間の意見に耳を傾けて、何が正しいのかを常に考えて、疑問に思ったことを徹底的に追求することです。
 若い時は一生懸命に体を鍛え、大会等で優勝する厳しい練習をすることによって自然に何事も負けない精神力が身につき、人格が完成できると想像する。日本には多くのオリンピックの金メダリストや一流の選手がいる。しかし、メダリストのスポーツ選手の人格が必ず優れているとは言えず、人生の晩年が明るい選手ばかりでないことも現実である。確かに、体力と我慢強さを身に付けるができるが、人格を高めることはできない。それはスポーツ界だけでなく、経済界もどの分野のトップリーダーにも言えることだけと思います。人は「どう生きるか」という課題を学問(武学)の中から必死に探求をすることによって、はじめて武道の力が生かされ、充実した人生を生きることができるのです。

講義3.バランスある中道の生き方
解説 自然の成り立ちに無駄なものはない。無駄にするのは人間の受け止め方である。「静と動」「陰と陽」「剛と柔」、世の中というのは対立したものが調和しながら存在している。しかし、どちらか一方に固執した態度こそ、不自然な生き方である。 「動」を意味する体と「静」を意味する心も同じであり、バランスの取れた体と心の向上が必要である。体だけをどんなに鍛えても人格は完成しないし、心だけ鍛えても戦う技を得ることはできない。例えば、いくら最強の力を持っていたとしても、見ず知らずの人に脅されただけで、ビクビクしてなにもできないならば、いくら立派な体をつくっても意味がない。
 空手道の世界も競争社会と成果主義の勝利に執着する「動(自己実現)」のみを追求する人、反対に自分の内面の追求が全てになり、実力が伴わない自己満足の「静(内面の安らぎ)」の世界のみを求める人など、気づかないうちにどちらか一方に極端に偏る傾向にある。「静がなければ動はなく、動がなければ静はない」、人はこの両輪が備わらないと自分の人生に本当の満足を得ることはできない。どちらか一方に偏った生き方は、片輪でその場で回転し続ける車のようなものである。心・技・体のバランスある正しい稽古になっているか。冷静な視点で客観的に考えて見る事も必要である。

講義4.高い志を持って生きよう!(What do you want to do?)
解説 人の能力は同じであり平等な環境でありながら、なぜ成功する人としない人がいるのはなぜだろうか。その答えは、努力の差であり、志(目標)を持っているかである。どんなに才能があっても何の努力なしでの成功はない。しかし、志を持つにはどうしたらいいのだろう。それには物事には必ず終わり(人は必ず死ぬ)があるという本当の意味を知ることであると禅宗の道元は言う。志のない人は物事に終わりがあるという儚さを知らないため、最後に後悔のみが残ることになる。
 少林寺で映画デビューした俳優ジェット・リーは、2006年に公開された映画『SPIRIT』を最後に武術映画から引退し、地震災害のボランティア活動に従事している。2004年スマトラ沖地震に巻き込まれ、家族が助けられた経験から限りある命をどう生きるかを必死に考えたからだそうである。ジェット・リーと言えば、俳優以外でも8歳の時に北京業余体育学校に入学してから中国武術を習い始め、1974年中国全国武術大会で個人総合優勝を果たしてから5年連続で優勝を果たした武術家としても一流の人物である。彼の俳優業としての表現は多くの若者に武術の素晴らしさを伝え、それによって多くの若者が武術を始めるきっかけにも繋がっていた。しかし、スマトラ沖地震という大惨事は、武術家として頂点を極めた力も自然災害の前では何の力も役に立たない無力さを感じたのではないだろうか。彼自身、これからの若者に正しい武術の理解と人が生きる上で大切な教育という面を考え、武術映画の世界から姿を消したのだと思われます。
 人の命は尊いものですが、命は永遠に続くものではない。そう考えると限りある命をどう生きるか。どう自分の人生と向き合って行くかだと思います。ハードパワーやナショナリズムではなく、相互協力による一生懸命に相手のために生きる人生を送ることによって、結果的に民族の繁栄も人間としての美しさも表れてくるのです。人のかっこよさ、美しさは決して姿や顔形ではありません。多少顔かたちが人より見栄えが悪くても、その人の人生が真っ直ぐであれば、内道の美しさが顔に表れて人を魅了させてしまうのである。モテようと格好ばかり気にする必要もありません。それよりも自分の人生を真剣に生きること。それだけに集中すればいいのです。それ以外に本当の意味でモテるということはありません。だから、日本人の心は桜の散りぎわの美しさを自分の人生と照らし合わせて魅了されてきたのです。

講義5.物事の真理を知るための条件
解説 昔は太陽や星が地球の周りを回っていると信じられていた。これは、地球が宇宙の中心だと信じられていたことによる。もう一歩突き行って考えてみると、人間と言うものがいつでも自分中心として、ものを見たり考えたりするという性質をもっているためである。ところが、コペルニクスは、天文学的な事実に出会って、地球の方が太陽の周りを回っているという天動説から地動説の考え方を説明し、今日ではあたりまえになっている。この説が唱え始められた頃は、教会で教えていることをひっくり返すことになるので、この学説は危険思想と考えられて、この学説に見方するものは牢屋に入れられたり、その書物が焼かれたり、散々な迫害を受けた。そのため、この説が証明されるまでは何百年という年月がかかっている。
 人は損得に関わると、自分を離れて正しく判断することは非常に難しくなってしまい、他人に嫌われないように自分が納得していないことも分かったように振る舞って生きてしまうものである。人生で一番大切なのは、どんな時にも自分の信じる道を見失わないで、他人に惑わされることもなく、人を傷つけない生き方を貫く事である。そして、今の何気ない日常の出来事をしっかり見つめて、耳を傾けることです。例えば、はじめて白帯を付けてワクワクしながら稽古に励む子供たち、男女の若者が稽古を終えて笑い合う光景、いつもの帰り道でも懸命に生きようとする雑草や自然のそよ風と太陽の恵みは何とも言えない心地よい気持ちになる。そして、尊敬できる先輩の言葉に励まされたり、素敵な人や憧れの人に出逢えて心をときめかせる瞬間があるかもしれない。そんな日常の中には素晴らしいものと美しいもので溢れています。その一つ一つの大切なことを見落とさないで全身で感じ、今しかできないことに全力で取り組むことです。
 将来は大切ですが、将来の事や世間体ばかりを気にしていると心が狭くなり、世の中の本当の事もついには知らないで通り過ごすことになるかもしれない。生きるとは将来や過去にあるのではなく、今のきらきら輝く一瞬一瞬の中にあります。勉強も稽古もしなければいけないものでも、誰かと競うために高い偏差値の大学や大会で優勝するためだけにするものではありません。今を生きていく上で、自分では解決できない課題や理解できないことに遭います。その課題を乗り越えるための方法を学問から学んだり、楽しいことにもっと挑戦したという純粋な好奇心と新たな出逢いの中で友情を深めるために部活動があります。そのような学校生活の中で、社会性と人を思いやる心を育みながら、その得た知識や力を必要としている人々又は世界の人々に役立てるためにあります。

講義6.人類の進歩の広大な流れ
解説 身分差別の厳しい時代、下級武士でありながら自由、平等、そして外国貿易への夢を抱いて心を躍らせながら生涯を果敢に生きた坂本龍馬の人生は、魅力的な人生である。彼はいつも男らしく、どんな困難な立場に立っても弱音を吐かず、どんな苦しい運命でもくじけなかった。
 けれども、坂本龍馬の偉大な人生も何万年に渡る人類の歴史の広大な眺めから見れば、太平洋に浮かぶ小枝に過ぎない。この大海原の流れにしっかり結びついていない限り、どんな人でもはかないものである。人によっては能力が有りながら流れに逆らい散っていった人もいるだろう。彼らの人生をサーフィンに例えるならば、小枝であっても波の法則を理解して大波に乗り、短い一生の中で自分の能力を最大限注ぎ込んで自由自在に動き回るサーファーのようなものである。
 坂本龍馬が時代の大波に乗るきっかけとなったのは、勝海舟との出会いが大きな運命の転換期と言われている。人類の歴史という大きな流れは、人類の進歩に価値ある方向にゆっくり動いている。その大きな流れにしっかり結びつくためには、良き同志との出会いと坂本龍馬のような強い心が必要になることをしっかり学ばなくてはいけない。よい心がけをもっていながら、弱いばかりに自分にも他人にも余計な不幸を招いている人も多い。誤った英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも同じように空しいものである。

講義7.奇跡の力について
解説 人は「欲望」と「願い」を混同して使用するが、二つの意味は異なる。初詣などの参拝を例にすると、「必勝祈願、受験合格など」は欲望を意味するが、「友の病の回復、海の自然を守りたいなど」を心から祈る時には「願い」となる。
 欲望は努力で成就するものであり、奇跡は願いから起こるものである。ただ何もせずに、望むだけでは奇跡は起こらない。自分の命に代えてでも人が成し遂げたい熱い情熱と人の限界を超える努力をした結果に生み出される必然の出来事である。考えてみよう。自分の成し遂げたい願いは、何のためだろうか?そして、自分以外の誰かに期待していないだろうか?その奇跡は、自分が踏み台になっても誰かのためになる強い意志があれば、その未来は必ず実現する。

講義8.自分が変われば、世界が変わる。
解説 自分を見つめ直す目的は、環境や他人を変えようとするのではなく、まず自分を変えることである。世の中や他人を変えたがる人は多いが、一人で簡単に世の中や他人を変えられるものではない。例えば、幸せのために職場や恋人を変えても自分自身が変わらなければ、どこに就職しようと誰と付き合おうと一時的な幸せ以外は何も変わらない。
 しかし、自分が価値ある人になり、この世の中に一人だけ生み出すことは、自分の努力次第で誰でもできるのです。真実は世界を変えたいならば、まず自分が変わる事である。安らぎも自分の中にこそ見つかるものであり、自分の外側にあるのではなく、自分自身の内側にあります。その第一歩が、これ以上のものをこの世の中に生み出すことができる人にもなれるのです。

講義9.何も持たない贅沢(ぜいたく)
解説 杜子春(とししゅん)
 杜子春は、中国の古典「杜子春伝」を童話化した話しである。唐王朝の洛陽の都の門の下に、若者が希望を失い、乞食同然となって一人佇(たたず)んでいる。彼を哀れんだ仙人が、大富豪・軍の大将・仙人と次々に望みを叶える。しかし、杜子春は、それぞれの人生に一喜一憂の悲哀があり、満足することができなかった。最後に、もう金持ちも偉くなることもなく、人間らしい暮らしをしたいと仙人にお願いする。仙人は微笑みながら泰山(たいざん)の麓(ふもと)にある一軒の民家と畑を与えて去った。杜子春が最後に選んだ人生は、貧しくても心穏やかに平凡に暮らす道だったという話しである。
 人が持ち得る財産には三つある。一つ目は生活に必要なお金、二つ目は生きる力、三つ目は心の豊かさである。お金は生活と生きる力(教育)を支えるパスポートであり、生きる力は心の豊かさを生み出す。お金は何かを実現するための手段であり、お金だけでは心の豊かさを手にすることはできない。本当に大切なものは、誰でもいつでも手に入る身近に存在している。幸せはきっといつもと変わらない日常の中にあるんだ。そばに居てくれる人達の想いを感じて、時には疑心暗鬼になるかもしれない。その時は、ただその人を「信じる」だけで、心が穏やかになれる自分がいる。けれども、人に騙されたら馬鹿を見るじゃないかと思うかもしれない。その時は、自分の運が悪かったと諦めればいい。大切な事は自分自身の想いだよ。人は運が悪いと自分の人生が恵まれていないと言う。しかし、本当は恵まれていないと思う自分の心が、恵まれていないだけなんだ。

講義10.貧しい環境又は満たされない自分の環境を打開する方法
解説 貧しさには心と経済力の2つがあるが、両方とも金銭・仕事の支援は本質的な改善になっていない。教育による知識・知恵を促す支援が、人の資質を改善する最も強力な推進力を生み出す。そして、貧しい人々又は満たされない自分の将来を明るくさせる最も有効な方法である。
 どんなに一生懸命に働いても貧しさから抜け出せない人もいれば、一生懸命に勉強をして自分の貧しい人生を豊かな人生に変えることができた人もいる。出逢いや本人の僅かな心の置き所で、人生も大きく変わってしまうものである。武道の指導者は、ただ単に技を教えるだけではなく、人生と向き合う方法や人生と闘うための知識と知恵を教えることにより、その人の人生は輝いていく。

講義11.人生の悲哀も新しい命の力に変わる。
解説 人生には努力の結果が結び付かないどん底の場面もあるだろう。しかし、その悲哀もその人の意思と情熱が本物であれば必要な良い結果の条件となる。人生に無駄な経験はない。蓮の花が泥水の中から綺麗な花を咲かせて、多くの人に希望を与えるように、人は自分が経験をしていない他人の痛みを理解できるほど偉大ではない。人は多くの人生の痛みを経験することで、多くの人の傷ついた心を癒すことができるのである。
 時代の大きな流れで言えば、相手を傷つけずに非暴力でインドの独立を勝ち取ったマハトマ・ガンジー、黒人と白人がいつか同じテーブルに就くことの大切さを教えたマーチン・ルーサー・キング牧師の二人の偉人は弾丸の前に命を失った。全世界が一つの国家になることを夢見たナポレオンは、国際連盟の設立を待たずしてこの世を去っている。また、空手道も第一次世界の悲劇から、教育者であった船越義珍によって平法の道を探求する武道として唐手術を空手道に生まれ変わらせた。これからも彼らの理想は、死して死なず生き続けていくことだろう。純粋な魂は、どんな足かせをはめようとしても必ず飛躍する。それは多くの人の望みであり、夜空の流れ星のように多くの人を魅了させてしまうからかもしれない。

講義12.人生に成功するには?
解説 人生に成功する道がもしあるとするなら、「I」ではなく、「We」で物事を考えて生きることであり、「私が」幸せになるのではなく、「私たちが」幸せになるように行動することかもしれない。
 人は憎み合い、自分勝手な欲望・虚栄心が満たされなければ、不幸を感じるものである。そんな時は、我を捨てた澄み切った心になって生きれば、身にふりかかる災害さえも自分を成長させる要因になる。そして、心は常に自由であり、思うように振舞っても、全ての人を真に生かす道が可能になるのではないだろうか。人間は千差万別の人が調和してこそ、住んでいて楽しい。様々な人種や個性等の違いによって人を軽蔑したり、羨んだり、あるいは自らを高ぶったりせず、自他の持ち前を真に生かす方法を考えるべきである。

講義13.平和への実現に不可欠な精神
 「地球上を全部牛の皮で覆えば、みんな裸足でどこへでも行けるが、それは不可能だ。しかし、一人ひとりが自分の足に七寸の牛の皮をつければ、世界中を皮で覆うたと同じことである。
 この世の中を争いのない平和な世界にすることは不可能である。しかし、一人ひとりが菩提心(平和を求める心)を起こすならば、人類のために自己のすべてを捧げることを誓うならば、めいめいの足に牛の皮を付けたのと同じように、この世界がいっぺんに争いのない、平和な世界になるだろう。」
 この言葉は山田無文が若き日に裁判官を目指して勉強中、チベット仏教を学んで帰国された河口慧海からチベット仏教の「牛の皮」の譬(たと)えを聞かれた際の話しである。山田無文はこの譬え話に出会い、この精神に生涯を捧げて生きようと決意された言葉のようです。

講義14.世に生を得るは、事を為すにあり
解説 生まれた環境がその後の人格形成や人生に大きく影響する。四国の山に囲まれ、なかなか外に出られない環境の中で、目の前に大海が広がっていれば、人は果てに思いを馳せる。その一人が坂本龍馬である。
 江戸の三大道場の一つと言われた千葉道場を努めた剣の達人である坂本龍馬は、他流試合に挑む時に口にした言葉が、「剣術なんて、勝っても愚劣。負けても愚劣。こんなものに100年明け暮れても世も国も善くならない」と言われた。龍馬がある時、「これからは刀より鉄砲の時代だ」、その数年後に「いや、これからはピストルではない。万国公法(国際法)だよ」という考え方から坂本龍馬という人物が何を考えていたのかが良く分かるエピソードである。
 もし、今の時代に坂本龍馬が生きていたならば、スティーブン・ジョブズのように人々の生活を豊にするためにより安い機器を開発し、貧富の差に関わらず誰もがインターネットにより故郷を離れることなく、安価な料金で世界の名門大学を卒業できることが可能な未来を実現したり、様々なコミュニケーション技術の発達により豊かな国、貧しい国の文化の壁を越えて、世界中の大地に血が流れる事のない、世界の人々が仲良く笑って暮らせる社会に尽力していたのではないだろうか。様々な困難や幾多の逆境にさらされながらも、それでも人生最後の瞬間まで「己の存在の意義」を自身に常に問い続け、己の人生と果敢に闘い続けた坂本龍馬の生き方は、「自分らしく生きたい」と願う次世代のすべての人々に時空を超えて語りかけている。そして、人が最も輝かしく生きる瞬間に全精力をつぎ込んだ善き生き方は、人生が長さではなく深さであることを私たちに身を持って教えてくれたと言える。

2.最後に
講義.私たちはどう生きるべきか。
解説 若き日、ある先輩に空手道で最も大切な物は何かを尋ねた時、その人は「想い」だと教えてくれた。世の中には自分を成長させるための様々な経験と学問があるが、その中で最も大切な事は身近な人や物を大切にする心を学ぶ事であると思います。想いの先には恩師、友人、家族などの出会が人を変え、紳士的な人々によって松濤會は支えられてきたからこそ今がある。真の武道家は強さを全く感じさせず、驚くほど優しい。そういう人は、謙虚に自分から謝る事ができ、武術の争いはつまらないから生涯使わない事が人生の理想であると考えている。剣を取る者は皆、剣で滅びると聖書に記載があるように、その意味では武術の強さなど人生において災いの基である。本当の人生最大の敵は自分の外側に存在するのではなくて、自分自身の心の内側にこそ存在している。本当の自分と向き合って、自分の弱い心に打ち克ってこそ、始めて自分の人生を切り拓いていくことができます。試合に参加できなかったり、優勝するなど誰よりも強くなれなければ、稽古は無駄だと思いますか。それは違います。人格完成を目指す心の鍛錬も武道の重要な一面なのです。稽古の目的は自分自身の成長を促して、日常生活の様々な事に自分の能力を活かしてこそ、本当の稽古の価値があるのです。それは社会人になっても同じことが言えます。私たちの仕事の目的は社長や部長になり、人よりも少しでも出世するために仕事をしている訳ではありません。自分の人生に価値ある生き方をするために、自分の能力を社会に少しでも提供して、社会をより良いものにすることに本当の価値ある生き方があります。
 他人への恐怖心も、人を傷つけようとする心も、すべて自分自身が作り出す形なき、幻影に脅かされているに過ぎません。この差別や偏見などの自分自身に負けない心の鍛錬にこそ、武道の領域を超えた人類不変の真理である永遠平和が実現するのではないだろうか。その証拠に不安や恐怖心を自分の目の前に出して、他人に見せる事ができますか。それは自分の心にしか存在しない物であり、他人は何も考えていないが勝手に自分で他人への恐怖心を煽いでいるに過ぎません。いつの日か世界中から核兵器や軍隊など必要のない社会が来ることを願いたい。私たちが本当に必要な物は武力ではなく、人への礼儀と思いやりである。その一本に貫かれた強い精神の稽古人こそ、真の空手家であり、私たちの同志です。
 最後におたずねします。この筋書きのない自分の人生を私たちはどう生きますか。これからの自分のドラマは私たち自身で台本を作ることができます。 

※ 本武学は、孔仁門の指導部により、数十年以上に渡る多くの恩師からご指導を受けた内容から次世代を担う人々に伝えるために、例え話を含めて、分かりやすく武道の心を継承するためにまとめられたものです。
 どんな環境でも、いつの時代にあっても、変わることのない全ての人への問いかけでもあります。近代空手道の「心」を知るためには、何百年、何千年の時間の中で風雪に耐え、今も行き続けている武道の精神と歴史を振り返ることにより、船越義珍先生を含む多くの先人が武道を心より愛していた意義と意味を理解することができます。空手道の真の稽古の目的は「武は平和の道」これより他には考えられないだろう。そして、これから空手道を学ぶ多くの方々に、少しでもその心を伝えることができたら幸いです。

孔仁門クラブ 武遊人












★未来永劫の平和を願う原爆の火★
(場所:神奈川県大船観音寺)


〇ご意見及びご感想について
 本武学講義は孔仁門クラブ指導部で多くの文献・空手師範等からお聞きした内容を基に本講義の作成を行いました(登場人物の敬称は全て省略)。
 空手の歴史はあまりにも歴史文献が少なく、空手の真実の歴史に至るために20年以上の研究の歳月を掛けた私たちでもまだ不十分であります。今後の課題は空手道の信頼性を高めるためにも、正しい歴史認識を事実証拠を基に検証し直し、歴史認識を空手界全体の関係者で改め直す必要がある重要な研究分野であると考えています。なぜならば、空手家にとっては空手道の真実の歴史を知ることは稽古の真の意味を知ることであり、喧嘩や争いが禁じられている時代になぜ空手の稽古をしなければいけないのか。最強の空手家として競技の優勝台に上がることはどんな価値があり、どんな人生の輝かしい未来が待っているのか。
 最後に我々は空手道を通して後輩たちにどのような空手道の素晴らしい価値を伝え、どのような素晴らしい人生を後輩たちに提供できるのか。これから空手を学ぶ稽古生が、後悔のない人生を送るためにも指導者自身が真剣に考え、「武道を学ぶは何のためか?」をこれからの若い人たちにしっかり伝えなければいけない。これこそが、私たち孔仁門クラブの使命だと考えています。松濤館流だけでなく空手道の他流派、他武道を問わず、武道を愛する多くの人々の貴重な参考資料として、更に空手道の研究・研鑽にお役立て頂ければ幸いです。
 ご意見及びご感想がありましたら何でも結構ですので、入会案内(又はご意見)のお問い合わせフォームからメールにて孔仁門クラブ事務局までお送りください。その意見を謙虚に受け止め、更に研究・研鑽をして成長して参りたいと考えております。